モンテッソーリ教育とレッジョ・エミリア教育について
近年日本で注目されているモンテッソーリ教育と、レッジョ・エミリア教育。子供がいる方であれば一度は聞いたことのある名前だと思います。
幼稚園や保育園、そして家庭全体でこの考えを実践しようとしている家庭も多いですが、このモンテッソーリ教育とレッジョ・エミリア教育ってどう違うの?どちらを取り入れて、どちらの幼稚園に入れるべき?そんな悩みもあるでしょう。
今回はこの2つの教育の歴史や背景、考え方を知り、どのように2つの教育を取り入れていくか、独自の視点も合わせて解説するので、是非目を通してみてください。
モンテッソーリ教育の歴史
モンテッソーリ教育はイタリアでマリア・モンテッソーリという女性医師が確立した教育方針です。
当時彼女は精神病院に勤務していて、ある時、知的障害児がパン屑を集めて粘土のようにして遊んでいる姿を目の当たりにして、彼らの行動を観察していました。そして彼女はある結論を出します。彼らは自ら感覚を刺激する遊びを求め、知能の向上を求めている。
そこで知的障害児に感覚を刺激する玩具を与え続けると。向上することのないと言われていた彼らの知能がどんどん上昇し、それは健常者の知能を上回ることさえあり、衝撃を受けました。
その後彼女は「子供の家」という保育施設をスラム街に設立。そこで彼女は子供達の観察や研究を繰り返すうちに現在のモンテッソーリ教育の形を作っていきました。現在では110カ国以上の国で指示され、世界中で急速に広まっています。
Google創立者である、ラリーページや、Amazon創立者のジェフベゾスがモンテッソーリ教育を受けてきたことで有名で、日本においては将棋の藤井聡太さんがモンテッソーリ教育を受けてきたことで注目を浴びました。
モンテッソーリ教育の特徴
モンテッソーリの目的は「自立していて、有能で、責任感と他人への思いやりがあり、生涯学び続ける姿勢を持った人間を育てる」というコンセプトに基づいています。
以下がモンテッソーリの特長です。
- 大人は子供のサポーターであり、上から価値観や押しつけをするものではない
- 子供は自発的に学び、自ら学習するように出来ている。それに従い自分で学習し、成長していく
- 大人が指摘して直すのでは無く、自分で間違いに気付いていく
- 1限目、2限目と時間が決まっておらず、時間に制限を設けない
- 興味のある学習を自分で選ぶ
モンテッソーリ教育では「教具」と呼ばれる玩具を使い子供達の好奇心や指先を刺激し、好きな教具を子供達が選んで好きなだけ遊びます。
子供主体の教育なので大人達は観察に徹し、子供達の選択や子供間のコミュニケーションは子供達に任せます。大きな争いや大きな事故やケガの恐れがない限りはあまり介入しないというのが大きな特徴です。
モンテッソーリ教育は幼稚園や保育園で普及の広がりを見せていますが、幼児教育主体の教育という認識が強く、小学校でモンテッソーリ教育を取り入れている小学校がわずかにあります。
管理型社会である日本、そしてこれから柔軟な社会を生きる子供達の能力を発展させるには注目を浴びているモンテッソーリ教育ですが、教育界に普及するにはまだまだ時間が必要だと感じますね。
レッジョ・エミリア教育の歴史
レッジョ・エミリア教育の始まりはまさしくレッジョ・エミリアというイタリアの街で誕生しました。
レッジョ・エミリア市は第二次世界大戦中にファシストやナチスと言った考え方に強硬に抵抗し、壊滅的な被害を受けました。そして第二次世界大戦での自国の敗戦を受けて、「このような過ちを繰り返さない人間を育成する」というコンセプトを基に、市民達の手で確立した教育です。
その後ニューヨークタイムズで紹介されたことにより、一気にその名が知られるようになりました。
現在ではGoogleやディズニー付属の幼稚園でも導入されるなど、世界34カ国の組織が加盟しており、日本の幼稚園や保育園などでも広まりを見せています。
レッジョ・エミリア教育の特徴
レッジョエミリア教育の主な教育理念はレッジョ・エミリア教育の創立者の1人であるローリス・マラグッツィの詩の中にある「子どもたちの100の言葉」の中で垣間見えることが出来ます。
子どもたちの100の言葉
「冗談じゃない。百のものはここにある。」
子どもは
百のものでつくられている。
子どもは
百の言葉を
百の手を
百の思いを
百の考え方を
百の遊び方や話し方をもっている。
百、何もかもが百。
聞き方も
驚き方も愛し方も
理解し歌うときの
歓びも百。
発見すべき世界も百。
夢見る世界も百。
子どもは
百の言葉をもっている。
(ほかにもいろいろ百、百、百)
けれども、その九十九は奪われる。
学校も文化も
頭と身体を分け
こう教える。
手を使わないで考えなさい。
頭を使わないでやりなさい。
話をしないで聴きなさい。
楽しまないで理解しなさい。
愛したり驚いたりするのは
イースターとクリスマスのときだけにしなさい。
こうも教える。
すでにある世界を発見しなさい。
そして百の世界から
九十九を奪ってしまう。
こうも教える。
遊びと仕事
現実とファンタジー
科学と発明
空と大地
理性と夢
これらはみんな
ともにあることは
できないんだよと。つまり、こう教える。
百のものはないと。
子どもは答える。
冗談じゃない。百のものはここにある。――ローリス・マラグッツィ(訳:佐藤学)
大人が1つの正解を押しつけ、99のものを奪う教育についての疑問がこの詩には書かれています。当時のイタリアもドイツのヒトラーと同じようにファシズムにより1つのやり方を押しつけられる教育の危険性を感じていました。
子供には無限の可能性があり、その可能性は大人が押しつけて制限するものではない。子供達が自ら考え、自ら学習し、その可能性を広げていくことが大切だとしています。
レッジョ・エミリア教育の教育の特徴は以下です
- カリキュラムや時間割が存在しない
- 大人は見守る立場に徹する
- モンテッソーリのような教具は存在せず、身の回りの全ての自然や廃材なども教材の一部と考える
- 子供の主体性を尊重する
基本的な考え方や概念はモンテッソーリ教育とあまり変わりません。大きく違うのは子供達の活動についてでしょう。
レッジョ・エミリア教育では4~5人ほどの少人数でプロジェクトと呼ばれる活動をします。このプロジェクトで何をするのかは子供達が独自で話し合って決めます。期限や活動方法、活動報告に至るまで子供達が十分に議論し、そのプロジェクトに向かって活動します。
個を重視するモンテッソーリ教育に対して、ある程度の人数で活動することが多い、というのがレッジョ・エミリア教育の特徴と言えるでしょう。
モンテッソーリ教育とレッジョ・エミリア教育、どちらが優れている?
ここまでざっくりと見てきたモンテッソーリ教育と、レッジョ・エミリア教育ですが、どっちが優れているの?どっちの教育方法を採用するべきなの?という疑問がありそうですが、どちらの教育方針を拾い、捨てるという考え方ではなく、どちらの教育方法も組み合わせて採用していく、私はこれがベストだと考えています。
どちらの教育にもメリット・デメリットは存在し、子供への考え方や活動内容に差違はありますが、どちらの教育も今の管理型社会である日本にはこれから必要となる教育ですし、概念という重要な部分では共通する部分は多いのです。
- 脱管理型社会を目指す
- 子供を主体とした教育
- 大人は考えを押しつけるのではなく、子供達のサポーターに徹する
- 子供の権利や意見を尊重する
という大きな共通点があります。つまりこの大きな概念を理解さえ出来ていれば、どちらの教育法を採用するかはさほど重要では無いと考えています。
さらにモンテッソーリ教育とレッジョ・エミリア教育は対立する存在ではないということです。概念が似ているので、子供達の無限の可能性を伸ばす、という目的は同じです。なので
「私はモンテッソーリ教育をしたいから、レッジョ・エミリア教育は嫌い」
「レッジョ・エミリア教育を推奨している幼稚園に通うから、モンテッソーリ教育は受け入れられない」
という事にはなりにくいと言うことです。
「我々は違う山を目指す。しかし私たちは登山家であるという同士であることに変わらない」
というような考え方です。
選ぶのではなく、組み合わせる
さらにモンテッソーリとレッジョ・エミリア教育はそれぞれメリット・デメリットなどがネットなどで挙げられていますが、デメリット部分に関しても正直極端な捉え方をしているケースも多いかな、と感じます。
例えばモンテッソーリ教育は「個を主体とした教育方法なので、協調性が身につかない、自己中になる」などとデメリットを言われているケースがありますがその解釈はかなり偏った見方だと考えています。
決してモンテッソーリは他者との協調性を無視してるわけではありません。個の能力を鍛えたり満足に自分の事をやらせてもらった子供は満足感や達成感を覚え、情緒が安定するので、他者との交流の中で相手の意見や、やりたい事も尊重できるようになると考えています。
さらにモンテッソーリの幼稚園などではどちらにしても集団で関わる機会はあるので、決して個人が好き勝手やることを推奨しているわけではないということです。
もしモンテッソーリ教育に関して協調性に不安があるのでしたら、それこそレッジョ・エミリア教育の中のプロジェクト活動を取り入れればその弱点も補えるのではないかと思うのです。
逆にもしレッジョ・エミリア教育のプロジェクト活動でどうしても少人数での活動をやりたくない子がいたらどうするか?ということですが、もちろんレッジョ・エミリア教育はそういう子供を排除するわけではありません。
今その子にはやりたいプロジェクト活動が無いということで、子供の意見を尊重しますし、個人で能力を活かしたいというのであれば、モンテッソーリの活動や教具を取り入れることも出来る。そういう2つの教育を上手く使いながら共存できる教育だと考えています。
他にも、
- レッジョ・エミリア教育の中でアートの分野に力を入れているなら、モンテッソーリ教育の中にもアートを取り入れる
- モンテッソーリ教育は手指や感覚の発達の意味から、単調な指の動きをするテクノロジーに関してあまりカリキュラムには入っていないが、これから必要なので適齢期になったらパソコンやタブレットを導入してみる
など、足りないと思うところは施設や家庭で柔軟に対応してしまって良いと思うのです。
特に家庭においてはそれほど型に当てはめすぎる必要も無いし、良いと思う2つのメリットを上手く組み合わせながら採用していく、というのも十分な手段です。
そして、この2つの教育は常に子供主体の教育です。子供を観察していて、将来必要だったり、新たな興味や学習能力の向上を検証できれば、柔軟に取り入れることも可能です。
つまりこの2つの教育は常にアップロードが可能であると言えます。
管理型社会での教育も変化はしますが、上の人間がこうだと思うやり方を決めて、押しつける教育なので、大きな効果や子供達の真の満足度を満たすことは難しいのです。
常に時代に合わせて柔軟に変化できる教育こそがモンテッソーリ教育とレッジョ・エミリア教育であり、この2つを組み合わせて新たな学習方法をアップロードしたり、良いところをカスタマイズした教育が可能です。
なのでどちらを選ぶではなく、まずは大人達が何を知り、子供達が何を求め、どんな経験や興味を持っているのかをじっくり観察してみて、そこから2つの教育の中の何を取り入れてみるべきか、という考え方をしてみると良いと思います。まずは実践してみてください。
最後までお読みくださりありがとうございました。
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