
湊かなえ『告白』の感想と考察
今回は湊かなえさんの小説『告白』について考察していきたいと思います。
『告白』といえば、湊かなえさんの代表作とも言えるミステリー小説でもあり、イヤミス(読んだ後に嫌な気分になるミステリー)という言葉を広めるきっかけになりました。
そして映画化され、松たか子さんが主演でR15指定を受ける過激な内容として世間に衝撃を与えました。
そんな『告白』が伝えたかったものは何か?を読み解いていきましょう。
この物語の中心にいるのは誰か?
この『告白』を考えていくうえでよく議論されているのが修哉や森口先生の行いですが、この物語の最も中心にいるのは彼らではないと思っています。私がこの物語の中心にいるのは殺された愛美の存在だと考えています。
彼女は登場人物の中で唯一罪や人の醜い部分のない存在だからです。ですが、そんな彼女は修哉や直樹の承認欲求を満たすためだけに殺害され、このことをきっかけに森口先生の復讐が始まりました。
ですが彼女自身は何をしたでしょうか?何の罪もないただの犠牲者でしかありません。昨今起こる凶悪事件でも犠牲者になるのは常に全く罪のない誰か、ではないでしょうか?
例えば美月の手紙の中に「H市母子殺害事件」という事件の話が出てきますが、これは言うまでもなく実際に起きた「光市母子殺害事件」のことです。この事件では自分の欲望を満たしたい未成年の少年によって母親と赤ちゃんが殺害されました。
そして自分の罪を軽くしたいために弁護士と結託し嘘を重ねた上で、未成年にも関わらず極刑判決が出たことで話題になりましたね。
この被害者もそうであるように、愛美も何の罪も落ち度もありません。しかし、そういった罪のない誰かが常に犠牲になるのが現代の殺人の象徴であるように思えます。
そして愛美の犠牲によってこの物語が始まっていくのに、愛美のことはまるでみんなが忘れているように思えるのです。
クラスの生徒達は正義感を振りかざして修哉に制裁を始めますが、逆に修哉に制裁を受けると、パタッと修哉に対する制裁を止めてしまいます。それどころか、修哉を生徒会役員に推す声さえ上がっています。
そして直樹の事件が起きたり、美月が殺されたりしますが、生徒達も読み手も愛美という尊い命が失われたことをなんだか忘れていきます。
みんな「制裁だ!」なんて口では言いますが、結局は第三者なんて好奇心と自己承認欲求を満たしたいだけで、痛ましい犠牲者の事なんて忘れているのではないでしょうか?
森口先生の行いは正義だったのか?
森口先生の行った「復讐」は正しかったのか?を考えてみます。
結論から言うと、彼女の「復讐」も正しかったとは言えず、どこか自分の承認欲求を満たしたいという気持ちがあったと感じます。
クライマックスで森口先生が修哉に放った一言にこんな言葉がありました。
「あなたの気持ちが母親だけにしか向いていないのに、被害を被るのはいつも、母親以外の人物です」
著:湊かなえ『告白』より 出版社:双葉文庫
先ほどの愛美と同じようにこの事件を改めて振り返ると、全ての犠牲者は憎い相手に直接手を下すのではなく、憎い相手の大切な人を奪うという復讐方法の犠牲者です。
そしてそれは森口先生の手法でも全く同じなのです。直樹が殺した母親、そして修哉の爆弾を修哉の母親の研究室に運び殺したのも、全ては森口先生の手引きでした。でもだとしたら、先ほどの言葉を修哉にぶつける必要があったのでしょうか?森口先生の言葉を返すとこうです。
「あなたの気持ちは復讐にしか向いていないのに、被害を被るのは、いつも加害者以外の人物です」
もちろん娘を理不尽に奪われた森口先生には一定の正当性と動機があります。そして直樹の母親や、修哉の母親のように、歪んだ教育理論や虐待、そして愛がこのような子どもを生んだことには一定の責任があるとは思います。
しかしそれでも、復讐したい相手の大切な人を犠牲にするというのは、修哉や直樹と同じ行動であり、危険な思考を持つ考えの一つと言わざるを得ません。
そして森口先生の罪とも言える行動はまだあります。
桜宮先生の教師としての熱意も復讐に利用した
もう一つが夫でもある桜宮先生の教師としての理念と熱意も復讐に利用したことです。
森口先生が去った後の担任は偶然にも桜宮先生の教え子だった寺田(ウェルテル)でした。彼は桜宮先生を崇拝しているところがあり、彼の指導や熱意を異常なまでに受け継いでいました。
その金八先生を地で行くようなやり方が結果として直樹を追い詰め、直樹に母親を殺させるという事件に至り、森口先生の復讐に利用されました。
確かにウェルテル自身が前年の報告書を読まなかったりなど頭も足りず、本当に生徒と真剣に向き合わずというのは愚かな行為です。しかし少なからず桜宮先生の熱意を受け継いだ人間すらも利用したということは、桜宮先生の想いを踏みにじった事とあまり変わりはありません。
確かに桜宮先生は最後まで父親としてよりも教師として正しい道を全うしようとしました。森口先生は牛乳にエイズに感染していた桜宮先生の血液を直樹と修哉に飲ませようとました。それを桜宮先生が阻止して、彼らに更生の機会を与えようとしたのです。
ですが、娘を殺された森口先生にとってはとても許せることではないでしょうし、同じく娘を殺されても殺人犯である生徒の更生を期待するという桜宮先生の判断は許せなかったでしょう。
たくさんの生徒を救い、教師という道へと導いた桜宮先生の理念を殺人に利用することで、ある意味桜宮先生への復讐を果たしていたのかもしれません。
それが森口先生の2つ目の罪だったと感じます。
美月が殺されたのも間接的には森口先生のせいだった
そして3つ目の罪は、美月の死も少なからず森口先生の責任だったということです。小説の中ではこのように森口先生は述べています。
それに、もしかするとあなたに殺されることもなかったかもしれない。そう思うと本当に心苦しいのですが、そうなると、あなたたち子供はすぐに責任転嫁をしてしまうので、私のせいだとは言いません。北原さんを殺したのはあなたです。
著:湊かなえ『告白』より 出版社:双葉文庫
この言葉は少なからず私のせいで北原(美月)は殺されたという意味を示しているように感じます。先ほどのウェルテルも、美月も結果としては森口先生の復讐の犠牲者になったということです。
当然このような復讐をしなければ美月は死ななかったかもしれない。この復讐がなければ少なからずウェルテルも普通の鬱陶しい教師として教壇に立てていたでしょう。
母親に認めてもらいたいために直樹を巻き込み愛美を殺害するきっかけを作った修哉。自分の復讐を果たしたいためにウェルテルを利用し、結果として美月を死なせた森口先生。
この2人に大きな違いはあるのでしょうか?
森口先生はどのような存在だったのか?「ねーんてね」の意味とは?

最後に森口先生とはどのような存在だったのでしょうか?
彼女は少年法などで保護され擁護される加害者に対する全ての代弁者とも言えるのではないでしょうか。果たして法的な刑罰、ましてや少年法に守られた少年に対する罰を被害者達は十分と本当に言えるのでしょうか?
先ほどの「光市母子殺害事件」に関しても、少年は1審、2審で無期懲役の判決が出ています。
その裁判の過程でも反省の様子は全く見せず、最高裁判所でも自分の無実を勝ち取りたいがために弁護士と結託し全ての証言を翻すという悪逆非道ぶりです。最終的にその行いが極刑という自滅に至りましたが、もしかしたらそれが無ければ最終審判でも無期懲役だったかもしれません。
そしてもし少年法で無期懲役だった場合、最悪5年程で刑務所から出る可能性もあったのです。もしそうであったら被害者遺族は納得出来たでしょうか?
このように司法の手に委ねても、十分な判決を得られず泣き寝入りをした被害者や被害者遺族は今日まで多く存在しています。
「例えどんな手を使っても、この手で被害者の真の復讐を果たしたい」
それが被害者の本音であり、森口先生の存在はそんな被害者の本音を映し出す存在なのではないかと考えています。
「母親」か「聖職者」か
そして最後に森口先生はどこまで行っても「親」だった。その一言に尽きます。この『告白』では、「聖職者」か、「親」か、その2つの選択を迫られていました。
桜宮先生はどこまでも「聖職者」であることを望み、自分の娘を殺されてもなお、加害者の更生を願っていました。社会的には最後まで生徒を信じた熱血先生という意味ではとても聞こえが良いものなのかもしれません。
しかし自分の娘の死よりも理念を、という考え方は「親」としてはどこか冷酷で、ウェルテルと同様にどこか陶酔した考え方ではないかと感じます。
そして「親」として復讐を貫いた森口先生の怒りは全うのようですが、またその過程に多くの犠牲者を出していて、正しいと言える判断だったのか疑問に思うところはあります。
それでも聖職者である以上に、母親でいたいという森口先生の願いだったのではないでしょうか?小説の最後の一文にこのような意味深な一言がありますね。
これが本当の復讐であり、あなたの更生の第一歩だとは思いませんか?
著:湊かなえ『告白』より 出版社:双葉文庫
復讐という言葉を使っている時点で、これが「聖職者」以上に「親」として娘を失った森口先生の心情を表しています。後文に「更生」という「聖職者」を思わせる言葉を使っていますが、果たしてそちらは本心だったのでしょうか?
もし更生を願うのであれば、直樹のように精神的に追い詰め、人格を破壊するようなことは更生と言えたのでしょうか?修哉に対しても同じで母親を自らの手で殺すという行為で果たして彼は更生されるのでしょうか?
答えは「否」でしょう。
そしてそれに明確な答えを出すように、映画では「なーんてね」という打ち消しまで付け足されています。
湊かなえの小説はイヤミスじゃない・・のかも
この『告白』というのは単なる爽快な復讐劇の話なのでしょうか?だとしたら
「修哉ざまーみろ!森口先生よくやった!」
とはならないのはなぜでしょうか?
昨今の漫画やSNSを見ていると、パワハラなりいじめなり、そして重い罪を犯した加害者が裁判で裁かれない人間をこれでもか!と言わんばかりに追い詰めたりむごたらしい拷問などにかけるようなものが流行しているように思えます。それによって裁くべき人間を真に苦しめ処罰感情を満足させるような風潮があるようにも感じます。
しかし、この小説を見てスッキリと終わったと感じるどころか、イヤミスという言葉を創りだしたように、嫌な終わり方をすると感じた人が多いのはなぜでしょうか?
第100刷記念に際し、湊かなえさんがこのような言葉を残しています。
人間に真っ直ぐに向き合えば、多くの人と共感することができる。しかし同時に『告白』を書いた12年前から、社会が進歩していない、とも言えるのではないか。いじめや歪んだ親子関係、他者の気持ちを慮ろうとしないのに、自己の承認欲求は膨らむばかり。
引用:リアルサウンドブックより URL:https://realsound.jp/book/2019/12/post-460662.html
この物語を、自らの黒い鏡として呼んでほしい。子どもであるあいだに。大人になったあとに。自分を善人だと信じている、あなたに。
湊かなえさんが言うように、私たちは常に善人である、正しいことをしていると信じてあらゆることを決定しています。
小説でもあるように修哉に対するいじめも「正義の行い」の延長上で行われているように思えますが、所詮は正義感という名の陰湿な嫌がらせに過ぎません。
ウェルテルも自分のやっていることは正しいと真に思い込んでいますが、真実から目を背け、綺麗事を並べた自己陶酔の理念でしかありませんでした。
無論、自己承認欲求のために殺人を犯した直樹や修哉も同様です。そして森口先生さえもどこか「復讐」という自己承認欲求にとらわれてさえいるのだと感じています。
結局このような事件が起きたときに、私たちは自分たちの「自己承認欲求」を満足させるためだけに行動しているのだと言えるのかもしれません。
誰かに復讐するとき、誰かに制裁を加えるとき、誰かの裁判結果を聞くときでさえ。
それは例外なく自分自身にあてはあり、「自分は違う」とは否定できない。そんな本質を突きつけられている。だからこそ、(自分の事を言われていて)嫌な終わり方なのかもしれません。
そしてもし一人一人が真っ直ぐに向き合っていれば、そもそもこのような事件は起きなかったのかもしれません。
ですが、湊かなえさんの言うとおり、社会が進歩していない。それどころか時代が進めば進むほど、人が向き合って話す機会など失われているのかもしれません。
自分の承認欲求だけが満たされるSNSでの晒しや、加害者をいたぶるような漫画を見て処罰感情を満足させるようなコンテンツが増えて、ますます人との距離は遠くなっているのだと感じます。
そうして、事件が起きないために、事件が起きたときにどうするべきだったのか?という本質的な問いから遠ざかっているように思えます。
だからこそ、嫌な終わり方と括らずに、この小説のような終わりなき、そして目を背けたくなるような内面、そして事実について真っ直ぐと向き合う必要があるのではないでしょうか?
最後までお読みくださりありがとうございました。









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