
ごんぎつねの考察[後編]。さまざまな考察や原文について読み解く
前回の記事では書籍「ルポ 誰が国語力を殺すのか」にて、ごんぎつねが「母の死体を煮る」という小学生の回答が小学生の読解力を低下している根拠として挙げられていますが、それが読解力の低下とは言えないという反論を記事にしました。
前回の記事はこちら
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今回はまた別に「ごんぎつね」にまつわるさまざまな説や何を伝えたかったのかなどを詳しく考察していきたいと思います。
なぜごんぎつねの最後の一文、「うれしくなりました」は「うなずきました」に変わっていたのか?
実は私たちがよく知っている「ごんぎつね」は加筆修正を加えられていて、その最後の一文がよく知られています。
「ごん、おまいだったのか。いつも、栗をくれたのは。」ごんは、ぐったりと目をつぶったまま、うなずきました。兵十は、火縄銃をばたりと落としました。青い煙が、まだ筒口から細く出ていました。
「ごんぎつね」より
これは児童文学者である鈴木三重吉による加筆修正を加えた結果のようです。実は新美南吉が書いたノートには本来このように書かれていたようです。
「ごん、おまいだったのか。いつも、栗をくれたのは。」ごんは、ぐったりなったまま、うれしくなりました。兵十は、火縄銃をばたりと落としました。青い煙が、まだ筒口から細く出ていました。
参考:ごんぎつね直筆 https://www.yanabe-e.ed.jp/01nankitiMap/nankiti_siryo/genbun_gon.htm
※一部原文と表記が異なっています
なぜ鈴木三重吉はこのような改変をしたのでしょうか?
恐らくですが、鈴木三重吉は児童文学として編集する際に、より子ども達に「何を伝えようとしているのか」を深く想像させるためにこのような編集を加えたとされています。確かに栗やキノコを届けて、最終的に銃で撃たれたごんの気持ちはどのようなものだったのかを考えるには「うなずきました」の方が想像しやすいですね。
ですが、「うれしくなりました」にこそ新美南吉が本当の心情や伝えたかったことがあるのではないでしょうか?私たちはごんの行いを「つぐない」の行為だと思いがちですが、実は「求愛」だったとする説が原文からは色濃くなります。
というのも、「つぐない」なのであれば、本来感謝して欲しいとは思わないわけです。ですが撃たれてもなお「うれしくなった」というのはされた事より自分がしたことを気付いてくれたからだったのではないでしょうか?
他にも加筆修正された部分があるのでそちらを見ていきましょう。
そしてごんぎつねは、もういたずらをしなくなりました
これはごんがいわしをいわし屋から盗んで兵十の家に置いたせいで、兵十が盗んだと思われて殴られたシーンです。
ごんは、これはしまったと思いました。「かわいそうに兵十は、いわし屋にぶんなぐられて、あんなきずまでつけられたのか。」ごんはこう思いながら、そっと物置の方へ回って、その入り口にくりを置いて帰りました。次の日も、その次の日も、ごんは、くりを拾っては兵十のうちへ持ってきてやりました。その次の日には、くりばかりでなく、松たけも二、三本、持っていきました。
ごんぎつねより
自分のせいで兵十が殴られたとごんは気付いて反省するのですが、新美南吉の原文では、ある一文が存在していました。
次の日も、その次の日も、ごんは、くりを拾っては兵十のうちへ持ってきてやりました。その次の日には、くりばかりでなく、松たけも二、三本、持っていきました。そしてごんはもういたずらをしなくなりました。
参考:ごんぎつね直筆 https://www.yanabe-e.ed.jp/01nankitiMap/nankiti_siryo/genbun_gon.htm
※一部原文と表記が異なっています
「ごんはもういたずらをしなくなりました」という表記がなくなっているのです。そもそもなぜごんは今までいたずらをしていたのでしょうか?そしてなぜいたずらをやめたのでしょうか?
前回の記事でも述べましたが、ごんはひとりぼっちで寂しかったのでしょう。だからいたずらで誰かの気を引くというのは昔でも現代でも変わらないですね。
ですが、ごんぎつねのいたずらによって兵十は母親に最期の願いを聞いてあげられなかった、そしてまたいたずらによって兵十が殴られてしまった、そのことによる内省ではないかと思うのですが、それ以上に私は、同じ「ひとりぼっち」を共有できる兵十と仲良くなれるからだと思っていたのではないかと考えています。
もちろんいたずらによってロクな事が起きない、相手を傷つけるということを知ったのかもしれませんが、何より自分のためではなく、兵十のためにいたずらをやめたとするむきが大きいのです。ここが「求愛」という部分が大きいポイントです。
ごんぎつね生存説の場合の現実的な話

ところでごんが実は銃で撃たれても死んでいなかったとする説があります。生存説の根拠としては、ごんが死んだとはどこにも書かれていないからだとされています。
「ごん、おまいだったのか。いつも、くりをくれたのは。」ごんは、ぐったりと目をつぶったまま、うなずきました。兵十は、火縄じゅうをばたりと取り落としました。青いけむりが、まだつつ口から細く出ていました。
ごんぎつねより
確かに「死んだ」とは一言も書かれていませんよね。が、個人的にはやはり死んだと見れるでしょう。「死んだ」と書かれていないから死んでないというのは物語の余白を読み取る力としては安易な発想なのではないかと思います。
とはいえ、私は生きていた説を自由に想像し、その後ごんと兵十がどうなったのかを自由に想像するのも面白いと思います。
ただもし生きていたとして、しかも毎日贈り物をしてくれたのがごんだった。だから分かり合い、仲良くなった、とはいかない大きな壁があります。それはもし銃が当たっていなかったとしたら、ごんは許されるのか、許すべきだったのかということです。
「つぐない」、もしくは「求愛」というのがキーワードなら、最も難しいのが、この「許し」の部分です。
兵十は最期にウナギを食べたいと言っていた母親の願いを叶えたいと思いウナギを捕りにいったが、ごんのせいでウナギを逃してしまい、母親の願いを叶えられなかった。
母親がウナギを食べたいと言ったのはごんの推測に過ぎないけれど、死にゆく愛する人の願いを叶えられなかったというのは想像する以上に無念であり、ごんに対する恨みは深かったのではないかと思います。
例えるならこんな感じではないでしょうか?
結婚を約束した恋人が病のガンにかかり、最後に会いたいという言葉を受け取り会いに行こうとしたが車をいたずらされて恋人に最後に会えずに恋人は死んでしまった
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さらには車のいたずらをした人物が良かれと思って代わりに仕事をしておいてくれたが、ずさんな仕事によってお客さんと上司にめちゃくちゃ怒られてしまった。
仮にいたずらした人物が軽犯罪として済んだとしても、良かれと思ってした行動にしても、された方の人間の無念と恨みは相当のものだということがわかりますよね。だからまた現れた犯人を銃で撃ってしまおうという兵十の考えも決して行き過ぎであるとは言えないのかもしれません。
ですが、もし撃つより先にごんが毎日贈り物をしていた事を知っていれば兵十はどのように考えていたのでしょうか?許したのか?それとも許さなかったのだろうか?
物語の中では兵十も銃で撃つという行為をしてしまった後のつぐないを見てしまったため、兵十自身も後悔の念があるのかもしれませんが、ただつぐないで贈り物をするというのだけでは許されなかったのかもしれませんね。
ごん自身が母親を殺したわけではなくても、愛する人の願いをそいつのせいで聞けなかったのにも関わらず何かをもらったからと言って許せる気持ちにはなれなかったでしょう。「つぐない」という意味では軽すぎるし、「求愛」だとしたら身勝手だとも言えるわけですから。
だからある意味、兵十の行いは「妥当」と言えるかもしれないですし、ごんが撃たれることも「自業自得」なのかもしれません。ですが、やはり「つぐない」を求める相手に対して許すか、許さないかというのは大きな焦点になるでしょう。そして申し訳ないことをした相手にどのようにつぐなうかというのもまた難しいものです。
なんせ大人だってどれだけつぐないをしても許せない相手がいるし、どれだけ許しを乞うても許してもらえない場面だってあるわけですから。
死刑囚がつぐないの手紙を遺族に渡しても拒否され、何度も書き続けるという話があるように、「許すか、許さないか」というのは子どもだけではなく、むしろ大人こそ本気で考えなければならない議題だと思うのです。そんなごんと兵十がどうやって理解し合い、許し、共に生きていくか、を考えるのもとても価値があるのではないでしょうか?
私としてはどうするべきか?というのは以前の記事でも話した通りですが、やはり言葉によってつぐないのを示していくしかなかったのではないかと思います。
ごんが人間の言葉を話せたらという前提にはなりますが。
「申し訳なかった」
「仲良くして欲しい」
そういった言葉を先に届けていくべきだったのではないかと思います。
「こうすれば償いになるだろう」「こうすれば仲良くなれるだろう」という一方的な考え方は時に摩擦を生じがちです。「つぐない」にしても「求愛」にしろ、まずは言葉で伝えていかないと相手との距離や誤解は解けない、そんなことを教えているのではないでしょうか?
おわりに
前編と後編に分けてごんぎつねを見ていきましたが、いかがだったでしょうか?
最後に私の個人的な想いとしては、許されないと、そして想いは実らないと分かっていても、危険だとしても「自分の気持ちを分かって欲しい」というごんの気持ちはよく分かります。
こちらは相手を想っていても相手はこちらを好きではない、もしくは何か悪いことをしてしまって距離が縮まらない。友情にしても愛情にしても、生きているとそんな誤解やすれ違いが生じることはきっと人生の中であると思います。
でも例え相手がどんなに分かってくれなくても、例え自分が命を賭してでも、「あなたへの想いは真実である」という気持ちを証明したいと思うことがあります。このように言うと「ストーカー気質」だとか言われそうですが・・
でも恐らくみんなそんな瞬間が誰にもあるでしょうし、子どもから大人に変わるまでは相手への想いってピュアじゃないですか。だからこそ、「ごんぎつね」のようにそもそも寂しいからといっていたずらすれば余計に周りから離れてしまうし、一方的な償いや求愛の形というのは、相手に迷惑にもなりかねない。
普段の振る舞いや態度、そして相手に何か悪いことをしてしまった場合の償いや、愛を伝える場合も、どんな距離感で適切に接していくのか。そんな事を話し合っていくのもこれから好きな人が出来たりすれ違いがこの先に起きやすい小学4年生という時期にも良い文学なのかなと思います。
私も本当に久しぶりに小学生に習った児童文学を読み返してみましたが、大人でも様々な憶測や考察が飛び交っています。ですがそれも小説や文学の一つの面白さでもあるのではないかと思います。
小学4年生が習う教材だからと決して甘く見てはいけないなと改めて思います。今後は児童文学も含めてさまざまな本を読んでいこうかなと思います。
是非この機会にごんぎつねを読み返してみてはいかがですか?
最後までお読みくださりありがとうございました。








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