ごんぎつねを読めない子ども達は読解力の問題?葬式で「死体を煮ていた」という回答は誤読なのか?

目次

「死体を煮ている」という回答について

今回は小学校で習う「ごんぎつね」について見ていこうと思います。

「ごんぎつね」と言えば1956年から教科書に掲載され、今も長く愛されている物語です。今でも根強い人気を誇り、私も当然「ごんぎつね」を国語で習いましたし、子どもも学校でいずれ勉強することになるでしょう。

ごんぎつねに関する全文はこちらのサイトを参考にしてみてください

ごんぎつねの全文

しかし今、このごんぎつねに対する子ども達の回答に対して様々な議論が飛び交っています。

「この話の場面は、死んだお母さんを鍋に入れて消毒しているところだと思います」

「昔はお墓がなかったので、死んだ人は燃やす代わりにお湯で煮て骨にしていたのだと思います」

これは実際にこちらの書籍の筆者の石井光太さんが小学校4年生の授業を見学していたところ出てきた意見だったようです。

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この書籍の中で学校の校長がこのように回答しています。

しかし、母親の死体を煮ているというのは、常識に照らし合わせれば明らかにおかしいとわかるはずで、平気でそう解釈してしまうのは単なる読み違いではありません。

こうした子たちに何が欠けているのかといえば、読解力以前の基礎的な能力なのです。登場人物の気持ちを想像する力とか、別のことを結びつけて考える力とか、物語の背景を思い描く力などです。

自分の考えを客観視する批判的思考もそうでしょう。それらの力が不足しているから、常識に照らし合わせればとんでもないような発想をしているのに気づかず、手を挙げて平然と答えられてしまう。読解力の有無で済ましてはいけないことだと思うのです。

引用:『ルポ 誰が国語力を殺すのか』(石井光太/文春文庫)

しかし私はこの「ごんぎつね」の授業において子ども達の読解力が低下していて、国語力が失われているということに一抹の違和感を覚えていました。

「本当にそうだろうか?」

そしてネットなどで情報を集めているうちに、このモヤモヤが私だけのものではないのと同時に、このごんぎつねの物語からは子ども達の読解力は低下しているとは言えない理由を解説したいと思います。

「ごんぎつね」の回答が誤読ではないという3つの根拠

まず今回この「ごんぎつね」での子ども達の回答が読解力低下とはいえない3つの理由があります。

・価値観の変化・情報の欠如
・誤解を招く一文
・先生の「いやらしい」質問

価値観の変化・情報の欠如

まず「価値観の変化・情報の欠如」についてです。価値観の変化については今回はあまり関連がないので多くは語りませんが、文学や小説とは時事的なもので、時代が変わるにつれその時代の背景やその当時の人々の価値観とは評価が変わっていく場合があります。

例えば明治の夏目漱石の「こころ」や「三四郎」を見ていてもこう思うことがあるかもしれません。

「何を伝えたいのかあまりよくわからないな」

というのも明治という西洋文化が入ってきたばかりの日本と西洋文化の価値観が入り、時代が変わった私たちには理解が難しいものがあるからです。このように現代のものさしではかってしまうと、理解が難しいのが明治や大正の文学と言えるでしょう。

「ごんぎつね」に関してはもっとシンプルで時代が変わった事による「情報の欠如」が問題です。つまり亡くなった人がいると親戚や近所の人を呼んで地域でお葬式をするという習慣自体を知らない子ども達も多いのです。

例え祖父母や親戚の葬式を経験している子ども達でも現代はセレモニーホールで葬儀会社に頼んで葬儀の一切をしてもらう、という流れが主流なので当時の時代の葬式というもの自体を知らないのです。

以前私は伊丹十三監督の「お葬式」という映画について解説しましたが、昭和の終わりの葬式のように家に人を呼んで親戚であれこれ葬儀の段取りをする、という事さえもはや珍しい伝統となっているのです。

以前の記事はこちら

ましてや江戸時代にあたるごんぎつねの葬式なんて現代の子ども達は知る由もないでしょう。この情報の欠如がごんぎつねの一連の話の解釈のズレへとつながっていくのです。

誤解を招く一文

先ほどの子ども達の情報の欠如に加えて誤解を招くのが「ごんぎつね」に登場する文章の一文です。一緒に見てみましょう。

十日ほどたって、ごんが弥助というお百姓のうちのうらを通りかかりますと、そこのいちじくの木のかげで、弥助の家内が、お歯黒はぐろ をつけていました。かじ屋の新兵衛のうちのうらを通ると、新兵衛の家内が、かみをすいて いました。ごんは、「ふふん、村に何かあるんだな。」と思いました。「なんだろう、秋祭りかな。祭りなら、たいこや笛の音がしそうなものだ。それにだいいち、お宮にのぼりが立つはずだが。」

その小さなこわれかけた家の中には、おおぜいの人が集まっていました。よそ行きの着物を着て、こしに手ぬぐいをさげたりした女たちが、表のかまどで火をたいています。大きななべの中では、何かぐずぐずにえていました。「ああ、そうしきだ。」と、ごんは思いました。「兵十のうちのだれが死んだんだろう。」

ごんぎつねより

これを見てあなたはどのシーンでごんが「葬式だ!」と気付いたと感じますか?

最初の場面でお歯黒をつけたり女性が髪をすいている場面ではごんは「秋祭りがあるのではないか?」と考えているので読者もそうなのだと予感します。ですが、女性達が大きな鍋で何かを煮ているのを見て初めてごんは「葬式だ!」と発言するのです。

ですが、大きな鍋で女性が料理するのであれば、それこそお祭りにも同じような光景はありそうなものです。芋煮会や炊き出しでも不思議ではありません。さらにごんは女性達の料理の場面を「何か」と表現しています。

これはあくまでキツネ目線では何を料理しているか分からないという視点の表現なのかもしれませんが、このように考える子どもがいてもおかしくはないでしょう。

「食べ物以外の何かを煮ているから葬式だとごんは思うんだな」

先生の「いやらしい」質問

そして先ほどの条件が揃った状態で出たのが先生による謎の質問です。

「このシーンでは何を煮ていたと思う?」

これをわざわざ班に分かれて話し合わせたというのがとても意味不明なのです。というのも、「ごんぎつね」の話においてここで何を煮ていたかは全然重要ではないからです。

にも関わらずここでわざわざ班で話し合わせることによって子ども達はこのように思うでしょう。

先生

このシーンで何を煮ていたと思うか話し合ってください

A班の少年

えっ?このシーンで何かを煮ているというのはあまり重要ではないと思うけど、わざわざ先生が話し合わせるということは何か重要な事なのかな?

A班の少年

これ何を煮ていたと思う?

A班の少女

うーん、でもごんぎつねはこの料理の場面を見て葬式だ!と思ったんだから、もしかしてお母さんを煮ていたんじゃない?

A班の少年

えー!何か食べるものを煮ていたんじゃない?

A班の別の少年

でもそれならわざわざ話し合う理由無いんじゃない?

A班の少年

そうだよね。当時のお葬式ならもしかしたらそういう事もあるかもしれない。

A班の少年

「この話の場面は、死んだお母さんを鍋に入れて消毒しているところだと思います」

先生

・・・

B班の少女

そうか、私たちも何もイマイチ出なかったけど、そういうこともあるかもしれないんだ、焼いている代わりに煮て骨にしているのかも

B班の少女

「昔はお墓がなかったので、死んだ人は燃やす代わりにお湯で煮て骨にしていたのだと思います」

先生

子ども達の読解力は低下している・・・

いかがでしょうか?この流れを不自然だと思うでしょうか?

発問と大人達の想像力の欠如の問題

以上の事を踏まえて考えるとあり得る話ではないのでしょうか?

私はむしろこの流れを見て思うのは子どもの読解力の低下より、大人や先生の想像力の欠如の方が深刻だと感じました。

もちろん現在における私たちの習慣や行動というのは目まぐるしく変わっていて、今の子ども達と大人達で何を知っていて何を知らないのかをつぶさに確認することはできないのかもしれません。

しかし、「ごんぎつね」は教科書掲載からすでに80年以上が経っていることを考慮すると子ども達が理解できない情報が多々あることを大人達は理解し、すり合わせることが大切なはずです。そうしたこともせずに「ごんぎつね」から読解力の低下を示唆してしまうのは大人達の想像力の低下の問題ではないでしょうか?

実際に書籍で担当した先生の年齢は知りませんが、少なくとも「知っている前提」で話を進めるというのは中高年の大人達によくあることです。

「こんなこと知っていて当たり前だろ!そんな事も知らないのか!」

「教えたんだから1回で覚えられるはずだ」

よく職場などでこのような事を言われたこともあるかもしれませんが、中高年世代はこのように考え、相手が分かるまで根気強く教えるという考えが薄く、自分が出来る事は当たり前に出来るという雰囲気が強いと感じます。

言語で細かく何回も教えるというより「仕事は盗め!」などと言われてきた世代だからでしょうか?ですが、こうしたことは職場ではもとより、教育の現場ではより致命的な解釈のズレや誤解を招くことになります。

お互いの知っていること、知らないことを良く理解し、すり合わせたうえで授業をするという大人達の国語力の方が浮き彫りになっているのではないかと感じずにはいられないのです。

もちろん筆者である石井光太さんが言う子ども達の国語力が低下している、そして国語力の低下が様々な非行や社会問題に直結しているとする根拠や論理はその通りだと思っています。

むしろ問題なのはもう一つ提言されている「一つの花」などは子ども達の読解力の低下に繋がっているのではないかと思うのですが、それはまた後に記事にしようと思っています。

ですが今回の「ごんぎつね」に関しては「死体を煮ていた」ことは子ども達の読解力と直結しているとは言えません。

ごんぎつねと大人達の想像力から学ぶこと

最後に私なりに「ごんぎつね」の解釈と考察をしてみると、今回の事象と結びつく皮肉のようなものがあると感じます。というのも「ごんぎつね」の最後から伝わることは、双方の解釈のズレ、そして国語力とも言えるコミュニケーション不足と言えるからです。

ごんぎつねがいたずらばかりしていたのはきっとひとりぼっちで寂しかったからなのでしょう。ですが、母親を失った兵十もまたひとりぼっちになってしまい、ましてや自分のしたいたずらによって最期に母親にウナギを食べさせることが出来なかったのかもしれない。

そんな償いの意味も込めて毎回兵十に贈り物をしたのですが、自分のおかげだと気付かれず、しまいには兵十にまたいたずらをしていると思われ銃で撃たれてしまいます。果たしてごんぎつねのするべき事が毎回栗などをこっそりあげることだったのでしょうか?

「お母さんに申し訳ないことをした。すまなかった」

「お互いひとりぼっちだから仲良くできないだろうか?」

ごんが独り言を言っているシーンがありますが、それはキツネ語かもしれないし、人間と話せることを前提とするならですが、もし話せるとしたならば、ごんがするべきは言葉できちんと気持ちを伝えることだったのではないでしょうか?

言葉や気持ちを伝えずこうすれば相手は喜ぶだろうという行いは時として相手をさらに傷つけたり誤解が生じたりします。まさに言葉で話し合い、よく理解した上で物事を行っていく、でないと誤解や解釈のズレが起こる。

「ごんぎつね」でも「ごんぎつね」の授業でも通じる大切な教えなのではないでしょうか?

最後までお読みくださりありがとうございました。

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