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叱るという行為は実はかなり危険
あなたは「叱る」ということについてどのように考えますか?また、叱られたという経験や行動に対してどのように考えますか?
- 人は叱らないと成長しない
- 私は叱られたおかげで今がある
- 子供の行動に毎日叱ってばかりで反省の毎日・・
叱る、叱られるについていろんな経験や意見があると思います。
私は職場においても学校においても、そして育児でも「叱る」という行為は不必要だと考えています。
褒めるよりも、認める。
叱るよりも、伝える。
私はこの考え方がとても好きです。
「褒める」という行為は相手を認めるための手段しかありません。そして「叱る」という行為もまた、相手に伝える手段でしかありません。
逆に言ってしまえば、相手の存在を認めて、それが伝わっていれば「褒める」という行為にあまりこだわる必要はありません。逆に相手にきちんとどうして欲しいのか、何がダメなのかを伝えることが出来れば、「叱る」にこだわる必要もないんですね。
「叱らない育児はやばい、ろくな子供に育たなかった」
「叱らないといつになっても分からない、生徒も言うことを聞かない」
という声を耳にしますが、それは本当に叱らないことが原因だったのでしょうか?それはきちんと伝えるという行為を出来ていなかった原因なのではないかと思います。
その他にも、そもそもちゃんと何がダメかを伝えられるだけの信頼やコミュニケーションが足りていないのか、叱らない育児というのを、何でも言うことを聞いて甘やかす育児と勘違いしていたのではないか、と様々な要因が考えられる訳で、叱る、叱らない、だけにフォーカスして判断は出来ないわけです。
叱るというのは実は思っている以上にリスクの高い危険な行為です。叱り方を間違えると、叱られた側は自己肯定感が下がり、場合によっては挑戦する自信を奪います。そして叱るという行為がエスカレートすると、パワハラや虐待の種となっていきます。
以前紹介した滋賀医科大学生母親殺人事件という事件は、子供に過度の要求をし、叱り続けた事がだんだん教育虐待という行為に姿を変え、叱られる側の限界を超えて起きた殺人事件と言っても過言ではありません。
紹介した滋賀医科大学生母親殺人事件についてはこちらの記事をご覧ください。
紹介した滋賀医科大学生母親殺人事件
そして叱るという行為は叱られる立場だけではなく、叱る立場にとってもマイナスの影響を与えるという事が近年明らかになりました。
それが叱る依存です。
叱るという行為はアルコール依存や薬物依存と同じように、叱るという行為そのものに依存してしまうという新たな見解がこの著書の中で説明されています。
今回はこの「叱る依存がとまらない」の本を要約と独自の解釈を交えて、叱るというメカニズムについて、そして叱るという行為に対してどのくらいの効果があるのか、そして叱るという行動が叱る側の深刻な依存症になるのか、一緒に見ていきましょう。
- そういえば毎日部下を怒っている気がするなー
- 子供に毎日ガミガミ言ってしまって、落ち込んでしまう
- 何で叱っても叱っても、あの人は出来るようにならないんだろう・・
そのように悶々と悩むあなたには必見の内容です。
「叱る」とは何か?
まず「叱る」という行為がどのような条件で発生して、何を叱るというのかを確認すると以下のようになっています。
- 上下関係が伴う
- ネガティブな感情が必ず伴う
- 相手を変えようとする行為
この3つが伴うと著書で説明されています。順番に見ていきましょう。
上下関係を伴う
基本的に叱るという行為は、上司が部下に、先生が生徒に、親が子にといった感じで、どうしても発生しがちな上下関係で、上の人間が下の人間に対して行う行為です。確かに部下が上司に叱る、というのは聞いたことないし、その場合は「不満を言う」「怒る」という言葉に変わります。
正確には著書では権力のある人がない人に対して行う「権力の非対称性」、つまり叱るというのは権力がある人がない人に対して、かつ基本的には権力の及ぶ人に対して行う行為です。
ネガティブな感情が必ず伴う
叱るというのは叱られる側にとって必ずネガティブな感情を与えます。ここで言うネガティブとは、「苦痛」や「恐怖」、「不安」などの感情です。逆に相手にこのネガティブな感情を与えないのであれば「説得」や「説明」に言い換える事が出来るのです。
つまり叱るとは、叱る側は少なからず何らかの攻撃性を持って相手と接して、恐怖や苦痛などのネガティブ感情を与えているというのが条件になっています。
相手を変えようとする行為
そもそもなぜ叱るのか、というと相手に対して変わって欲しいと願うことです。叱るというのは他者を変えようとする手段であり、叱る側が求めるあるべき姿やしてほしいことを実現する手段というわけです。
つまり「叱る」とは
これらを踏まえて著書の言葉をそのまま引用すると、叱るの定義は
言葉を用いてネガティブな感情体験(恐怖、不安、悲しみなど)を与えることで、相手の行動や認識の変化を引き起こし、思うようにコントロールしようとする行為
と定義されています。
ちなみに叱ると怒るについては違うじゃないか!という意見もよくありますが、著書によると怒るも叱るもどちらもネガティブ感情を伴ってる時点で違いはほとんどないと書かれています。
そもそもどちらも叱る側の感情の差に過ぎないわけです。「怒りに任せて」怒っていようが、「相手のために」冷静に叱っていようが、ネガティブな感情を与えている時点で差がないわけです。
愛があるのが「叱る」、無いのが「怒る」という定義で分けている人もいますが、これも同じように受け手が捉えるべきことです。愛があって叱っていようが、受け手に「攻撃されてる」と感じればただの攻撃でしかありません。
愛があるなら鉄拳制裁もOKみたいな訳の分からん教育論もたまにありますが、「躾のためだった」、「教育のためだった」と言って過度の暴力や暴言を吐き、一生の傷を負ってしまったり亡くなってしまったという事件もあります。
人の一生を奪うような暴力や暴言に愛があるない、躾かそうじゃないかなんて関係ありません。暴力は暴力であり、暴言は暴言でしかないのです。
「叱る」も「怒る」も叱る側の都合の良い解釈でしかないのです。
叱ることになぜ依存するのか
次になぜ叱る事に依存性があるのかについてお話ししたいと思います。
理由は2つです。
- 自分の求めている結果が即座に返ってくる
- 処罰したいという感情が満たされる
自分の求めている結果が即座に返ってくる
叱るという行為は相手にして欲しいと思う行動や行為を即座に結果として反映させる事が可能です。
例えば相手が自分の望む行動をしてくれなかったことで叱る。それによって相手はすぐに自分の望む行動をしてくれます。それによって相手が「理解してくれた」と錯覚するのです。
「それなら良いんじゃないのか?」
「望ましくない行為をした相手のためじゃないのか?」
と思うかもしれません。しかしそもそも部下や子供が望ましくない行為をしていた時、権力者はどのように考えるべきでしょうか?
それはそれが良くない行動だと理解し、学んでくれることです。
一見それは学習し、それをしないという行動や謝罪で理解してくれたように思えるかもしれませんが、錯覚です。叱る事で相手は権力やネガティブ感情を与えられて一時期それを「中断」したのであって、理解したわけではありません。
では、叱られた側は叱られた時、どんな状態になっているのか、脳科学から見てみましょう。
叱られた時、戦うか、逃げるかの判断を迫られている
人間の脳には扁桃体と呼ばれる脳の機能があります。この扁桃体は「恐怖」や「不安」にとても敏感に反応すると言われています。
叱るという事はネガティブな感情体験を引き起こすと説明しました。なので叱られる事でこの扁桃体が強く反応します。
そして人は叱られるとこの脳の機能が動き出し、ある2つの選択をするようになっているのです。
戦うのか、逃げるのか、です。
戦うというのは、逆ギレをしたり、言い返したりなど、相手に攻撃を仕掛ける行為です。しかし人間権力を持つ者に易々と立ち向かえる訳ではありませんし、攻撃することで自分の「恐怖」や「不安」をさらに強めることが理解しています。
なので、多くの人は逃げるという行為を選択します。その行動をしてみたり、謝罪したりして、何とかこの苦痛な状況を脱しようとするわけです。
こうした扁桃体による防御システムが反応することは、本来強い危険が迫ったときに反応する機能です。危険が迫ったら本能的にどうするのかを選択し、判断をしなければなりません。
なのでゆっくりと冷静に考え、何がダメだったのか、どうするべきだったのかを学ぶ状況では無いということです。なので、また同じ失敗やミスをして叱る、叱られ続けるというループが発生する可能性が生じます。
そして叱られ続けると人は「慣れ」が出てきます。慣れると叱られてもしてほしい行動や結果が返ってこなくなります。
それにより叱る側もより強い言葉や行動でその行動を改めさせるようになります。それにより叱る側の叱る依存はさらに深刻化し、叱られる側の心にも大きなダメージやショックを与える結果になりかねません。
なので叱る事で相手の行動を変える、という行動はそもそも本来の目的を達成できるものではないのです。
処罰したいという感情が満たされる
そして2つ目は処罰したいという感情が満たされるという叱る側の欲求を満たすことです。
実は相手を罰するという行為は人間の大きな快感の1つとなっているようです。実際にSNS上には「炎上」という言葉もあるように、相手を大勢で過度に批判するという現象が起きることがあります。
もちろん不適切な発言や、問題とすべき投稿もあったりしますが、それが大勢の人が批判や暴言により、多くの人の処罰感情の充足という欲求を満たす場合が存在します。
かつては公開処刑という大勢の前で罪人を処刑するという方法がありましたが、大衆の前で辱め、処刑するというのは多くの人の処罰欲求を満たす娯楽となっていました。まさにSNSでの炎上や過度の批判は、この「現代版公開処刑」になっているという事です。
それと同じように、叱るという行為も自分が正義で、相手は悪という定義を定め、相手を責める行為となり得ます。
「罰せられて当然だ!」
「怒られても仕方ない!」
実は相手を叱るという行為は相手のため、というのは建前で、本人も知らず知らずにこの処罰感情を満たすことが快楽になっているケースも存在するということです。
本来叱るという行動を取らなくても人の行動を止めたり伝えることは可能なわけです。わざわざネガティブな感情を植え付けて強く叱るというのは、「お前は罰せられて当然なんだ!」と相手を威嚇し、周囲に自分の正しさをアピールしているだけなのです。
日本は叱る事で賞賛される
そして叱る側の依存を強め、叱られる側の傷をさらに深くする原因が、世間が叱るという行為を賞賛していることにあります。
「最近叱れない教育者が多くでダメだ!」
「厳しい指導が出来る人間が必要だ!」
などと、叱れる人が世間では求められています。だからこそ思う存分叱る側は公然と叱る事が出来るわけです。
部活動の顧問も優しく伝える生徒はどことなく不安になり、厳しく叱れる顧問だとなぜか安心できる。仕事も優しく丁寧に教える人よりも、常に厳しく叱れる人が評価される。
私たちは恐い顧問だったら嫌ですよね?しかし自分の子供の顧問が厳しい顧問であると安心する。常に厳しい上司なら嫌ですよね?しかし、叱れる人が部下になると、なぜか安心してしまう。
それは長い間叱る事が良いこと、という日本の空気を吸ってしまい過ぎたが故に、叱られるのは嫌だけど、叱る人は賞賛されるという空気を身体が求めるようになったからなのかもしれません。
しかし、叱る事で相手の行動を変えることに慣れ、処罰することで自分の欲求を満たしているのであれば、それは叱る依存であり、そして依存は依存でしかありません。
私からするとそれは、社会的に許されるアルコール依存症のようなものです。
朝一番にお酒を飲み飲酒運転をして、会社でさらにお酒を飲んでいる人がいたら、一発クビ、逮捕です。そして治療をする事を求められます。もちろん事故も起こさず、誰にも危害を加えていないにしてもです。
しかし叱る依存は、会社で人間関係を壊し、時には優秀な部下が辞めていき、会社の売り上げや貢献も多く損ねる結果になっている。そんな損害があるにも関わらず、会社はクビにはしない、出来ない、それどころか賞賛し、依存を加速させるという危険すらあるわけです。
みんなそうやって育って来た
ちなみにこれに似た言葉を多かれ少なかれ言った、聞いたという人もいるかもしれません。
「昔なんてみんなそうだったよ。当然のように叱られ、殴られ、でもそうやって育って来て今がある。今の若い世代は甘やかされて育って来た。だから日本が衰退するし、いつになっても良くならないんだよ」
私も生きてきてこんな言葉を親世代の人たちに何度も聞かされた時があります。しかし、やはりこの言葉には何の説得力がない事を改めて感じます。
そもそも教育制度が未熟だった
確かに昭和の時代は殴られ、叱られ、の時代だったのかもしれません。しかしそれは単に教育はそういうものだ、という根拠の無い教育が横行していたに過ぎません。教育が未発展だったために、簡単に人を操れる脅しに頼っていただけです。そして大人の言うことを聞くことが教育と定義されていただけです。
しかし教育も試行錯誤の末にアップデートしていきます。そういった根拠の無い根性論ではなく、何をしたら子供の能力は伸びるのか、どうしたら自分で考え、行動できる子供が育つのかが数字や研究で明らかにされているのです。
つまり現代教育は、甘やかしているのではなく、根拠に基づいてより良い教育に生まれ変わっているのです。子供達は新しい知識や見解に基づいてアップデートしている、しかし古い世代が新しい時代にアップデート出来ていないため、昭和の時代の教育を「良いもの」と捉えているだけなのです。
狩猟しか知らない人間は狩猟こそが最高だと考えます。故に農業や畜産が生まれるとそれを非難します。しかし農業や畜産の方がより効果的に食というニーズを満たせることは自明の理でしょう。昭和世代の考えはこの原理と変わらないのです。
多くの人が脱落した事実を知らない
殴られ、叱られ、の昭和の教育、そんな教育を誇りに思っているような口ぶりで話す人もいますが、当然その当時殴られ、叱られた本人はそれを嬉しいとその時感じた訳ではないです。同じように逃げたいと感じていたはずです。
そんな辛い過去を誇らしげに語るのはなぜか?それは生存者バイアスと呼ばれる認識の偏りがそうさせています。生存者バイアスは脱落した者や淘汰されて来た者を評価せずに、生き残った者だけを評価するという考えです。
つまりそういった教育を辛い、逃げたいと感じながらもそれに耐え忍び、生き残ってきた自分を評価しているのです。
逆に言えば昭和の時代でも、そういった教育の影響で脱落し、トラウマや悲しみを抱えて生きてきた人たちがたくさんいるという事実を覆い隠してしまいます。
70年代も「落ちこぼれ」という若者がたくさん出ました。現代でも8050問題という、50代の引きこもりが増え、80代の親がそれを支えるという問題が増えていて、それが大きな社会問題となっています。
この問題の多くは、昭和の教育が適応できずに社会生活に馴染むことが出来なかったという人が多くいたという事実を明らかにしている問題なのです。
日本人の処罰感情を満たす無意味な厳罰化
叱るという行為がほとんどあまり効果が無いことを話してきました。それと同じように法律で厳罰化をすることは効果的なのでしょうか?そして罰を与えることによってどれだけの効果があるのでしょうか?
著書では厳罰化することは厳罰化など罰を与え、それを厳しくすることにほとんど効果が無いとしています。効果が無いどころか、自体を悪化するようです。
日本では少年法が改正され、19歳、18歳の少年も成人と同様の刑罰を与えることが可能になりました。
しかし、そもそも未成年による犯罪は実は減少しているのです。未成年者による犯罪がニュースなどで多くピックアップされ、少年犯罪が増えているように錯覚しているだけで、実は未成年者の犯罪は減り、現代の未成年は犯罪を起こさなくなっているのです。
それにも関わらず、なぜ少年法の改正に踏み切ったのでしょうか?理由は明確です。
日本人の多くは厳罰化することで犯罪が減ると思い込んでいる。そしてこの国民感情を利用して法を改正することで指示を集める政治家もまた存在するということです。
そして厳罰化は実は犯罪発生率を上昇させることになるとすら言われています。
厳罰化するというのはつまり刑期を延ばすということになります。実際に刑期を延ばせば延ばすほど犯罪者の社会復帰は困難になります。それにより就職が困難だったり、社会からの孤立など復帰に行き詰まった人はまた犯罪に手を染める、という悪循環に陥ることになります。
再犯率という意味では特に厳罰が犯罪の抑制や社会復帰を願う法律ではなく、社会復帰よりも罰を与える処罰感情の充足に重きを置いている日本の闇が浮き彫りになっています。
その他アメリカでの薬物戦争と呼ばれる大がかりな厳罰化が40年にわたり失敗している例や、香川県のネット・ゲーム依存症対策条例の制定などが抑制になっていないどころか逆効果になっているという事実が存在します。
厳罰化がその問題の根本的な解決になっていないことが鮮明になっているのです。
叱る人は処罰されるべき人なのか
ここまで見てきて以下の事が明らかになりました。
- 叱る事は大きな効果は得られない
- 叱る事自体が依存症という大きな病になってしまっている可能性
- 相手を罰することは統計や事実を見ても効果がほとんど無い
では私たちは叱る依存の人たちにどのように接して行けば良いのでしょうか?
1つ言えることは、先述の結論から「叱る人を叱る事」、「叱る人を処罰すること」をしても根本的な解決にはならないということです。
アルコール依存症の人を叱っても、依存症という病は治りません。彼らからお酒を取り上げても、根本的な解決にはならなりません。
依存症の人に必要なのは知ること、依存を手放すこと、そして治療をすることです。
今までの通り叱るという行為に依存性があることは承知の通りだと思います。ここからは、どうやって手放して行くかを著書に沿って説明していきたいと思います。
まず叱るを手放すには2つの事を理解する必要があります。
- 自分が権力者という立場であると理解する
- 叱るという行為が必要な場合を理解する
この2つを追っていきましょう
自分が権力者という立場であると理解する
まず自分は相手に変えるということを強要できる立場であるということを自覚することから始まります。
人は相手にこうあって欲しいという理想が常に生まれます。しかし理想の上司になって欲しいと上司を叱る事は難しいでしょう。なぜなら上下関係では自分は下で、逆に上司に理想を強要できる立場だからです。
それに比べて部下は強要できる立場だから叱るのは簡単です。自分の理想とするあり方になって欲しいと強要することは容易であり、そのズレがある場合に頻繁に叱るという行為が発生します。
会社のため、社会のため、あなたのため、と言う都合の良い言葉で叱るを正当化していないか、もう一度考える必要があります。
「自分は5分でその作業を終えられるから、それ以上掛かる奴は悪い奴だ」
「多くの人は5分で終わらせられるから、それが出来ないと会社の損失になる」
という風に自分の価値基準で叱る境界線を引いてしまいがちです。しかし本当にそれは5分で終わらなければ損失になるような作業でしょうか?5分で終わらなければ、なぜ5分で終わらないのかを考えていますか?
それが正常な事なのか、異常な事なのか、その境界線は実はあなたが勝手に引いただけであり、権力者側の勝手な都合なのかもしれないと一歩引いて考えてみる必要があります。
叱るという行為が必要な場合を理解する
叱るという行為はほとんど効果が無いと言いました。しかし、全く効果が無いわけではなく、叱るという場面が効果的な場合があります。それは「危機介入」という場面です。
何が危機かは著書では具体的な弊害の有無で判断すると良いと書かれています。ちなみに私も叱らない育児を大切にしていると言っていますが、100%叱らない事を目指しているわけではありません。私も唯一「叱る」を実行すると決めている場面があるので私の話をすると
- それをすることで大きな怪我など、命や一生に関わる危険を伴う行動をしようとした時
- 相手に大きなケガを負わせたり、双方で大きな心や身体の傷を深めるほどの争いが起きたとき
具体的には道路に飛び出そうとしたとき、凶器を持って喧嘩している時などです。こういう場合は短期的に叱ります。短期的なのは、あくまでその行為を止めるためであり、その勢いで諭してもまさに叱るという行為で相手は聞く態勢にならないからです。
もっともそのような状況の時に冷静になるというのは難しいですが、そういった場面を私は危機と定め、叱るようにしています。
このように危機的状況が発生し得る時にこそ「叱る」という行為は効果を発揮するとされています。
そしてもう1つ効果的なのが「抑止」という場面です。
これは叱ること自体というより、そもそも叱らなければいけないという場面を避けることに有効です。
つまり、どんなことをしたら叱られるのかをあらかじめ伝えておくことが必要だとされています。予告無しに叱ったり、罰を与えても、抑止の効果は得られません。
育児においても、叱る事を減らしたいのであれば、そもそも叱らなければいけない場面を減らす、ということが大切です。
具体的には、触って欲しくない、割れる危険のあるものは子供の周りに置かないなどです。そして何をするのが望ましいのかは叱る場面になって教えるのではなく、予め十分なコミュニケーションを取る必要があるのです。
やらない、出来ないについて
「この人はそもそもやらないのか、出来ないのか」
これについて悩むこともあると思います。実は出来ないのにも関わらずにやらないと叱る、これは最悪です。そして敢えてやらない、不適切な行動をする事を叱るのもまた良い判断ではありません。
大切なのはなぜ出来ないのか、やらないのか原因を観察し、適切に対応することです。
それぞれ見ていきましょう。
出来ない事への対処法
出来ない場合は出来ない原因を明らかにすることです。
育児においては、心や身体が十分にそれが出来る発達と条件が揃っているかじっくり見極めることが必要です。
例えば子供がいつになっても自分の友達におもちゃを貸してあげられないとします。子供がおもちゃを貸せない理由は子供によって様々ですが、多くの場合、まず自分が「所有する」という欲求を十分に満たせていない場合が多いです。
自分が所有できていないものを、人に貸すということは出来ないんですね。なのでこの所有するという欲求を十分に満たしてあげることが必要になってきます。その過程を飛ばして大人が無理矢理におもちゃを取り上げて、友達に渡しても、貸してあげるという事の意味と心は成長しません。
ちなみに適齢期というものは全く出来る出来ないの基準にはなりません。子供の発達段階は個人個人で大きく異なります。焦らず子供の発達段階や興味の幅を見極めて子供の出来るを増やしてあげましょう。
職場においてもこの適齢期というものを人の出来る、出来ないに当てはめてしまうケースもあります。
「3ヶ月やったんだから、この作業はこの時間で出来て当たり前だ!」
「2回教えたのに出来るようにならない。あいつ使えない・・」
こういう教育の回数や時期によって暗黙で人の価値を決めるケースというのが経験上すごく多いように感じます。
覚えることが多かったり、3回までしか教えないみたいなルールの職場って覚えられなかった場合、真似している場合でもどんどん自己流になっていくことが多いんですよね。
それが効率が良く、効果的な自己流なら良いのですが、間違った方法、間違った解釈で覚えてしまい、それが浸透してしまう場合もあります。それで非効率で時間の掛かる自己流をマスターするしかなかった部下は「使えない」人と認定されてしまいがちです。
個人的にはしっかり観察、修正し、適切な指導が出来ない上司の責任です。大人もまた個人差はありますが、どんな人でもきちんと見てあげれば、成熟した仕事量をこなせます。出来ない部下や後輩ばかりが出てくるのは、個人の力量ではなく、会社の暗黙の仕事の価値基準を見直す必要があります。
やらない事への対処法
敢えてやらない、またはやって欲しくないことをやってしまう場合にはどのような対処をしていけば良いのでしょうか?
幼児の場合、やって欲しくないことをやるケースは大抵、それをやることで親や周りの注目を集められるから、という理由があります。
これを注意喚起機能と呼び、実は叱られることで自分に注目が集まってくれる、構ってくれるという欲求を満たすからです。この時にどれだけ叱っても、子供はその行動をエスカレートさせるだけなので逆効果です。
ここで有効なのは、注目を集めたいわけですから、最も自分の注目を集めてくれるものは、適切な行動をしてくれた時に大きく注目してあげれば良いわけです。なので不適切な行動に大人が感心が無い、でも適切な行動に対して大人は大いに注目を集めてくれると理解してくれれば、その方が良いわけです。
敢えてやらない、というのも育児にはあるあるだと思います。幼稚園では1人でお弁当食べられるのに、家では「食べさせてー」と言うケースなどがあります。
このケースにおいては、特に無理に自分でやらせるのではなく、食べさせてあげて良いです。子供も幼稚園や保育園など、初めての集団生活では十分にリラックス出来ていなかったり、甘えられない場合も多く、それなりにストレスを抱えている場合もあります。
私たちも実家に帰ったら両親にご飯作ってもらったり、洗濯してもらったりと、大人になった今でも親に甘えることもあります。なので子供のそういう甘えは受け入れてあげてOKなのです。
もし職場など、十分にコミュニケーション取れる世代において敢えてやらないという事が増えているならば必要なのはやはり観察と原因究明、そしてコミュニケーションを取ることです。
どちらにせよ、叱るという行為は問題の解決にはならないということを覚えておきましょう。
「叱る」を手放すために
叱る事を手放すための話を多くしてきましたが、叱るを手放すというのは要は
- 叱る事による極めて限定的な効果
- いかに叱る状況を回避するか
- 叱るという処罰で快感を得ているという事実
これらを理解することです。もっと言ってしまえば叱ることがほとんど無意味なケースが多いということを理解する事です。
もしあなたが今までの話を見てきても、叱る依存を止めたいけど、どうしても止めることが出来ないならば、専門家による適切な診断をお勧めします。
専門家の多くはあなたに寄り添い、適切な治療と解決策を一緒に考えてくれる味方になるはずです。
著書ではその専門家が「叱る人」だったら、離れることを推奨しています。叱る人からの治療はあなたの役には立ちません。
専門家の適切なアドバイスを聞き、叱るという危険な依存症から少しずつ脱却しましょう。
「叱る」を日本中から減らしたい
いかがだったでしょうか?
私自身子供の頃は先生や大人に叱られてばかりで、いつも泣いていました。
そして大人になっても叱るというネガティブな体験を多くして、叱るという行為に疑問を持ちながらも、私自身も叱るという経験を部下や後輩に多くしてきた過去があります。
「叱るって嫌だな」
「叱られるって嫌だな」
そんなジレンマを抱えながらも、叱る、叱られる事が当然という社会の常識にどんどん呑み込まれていきました。
しかし、本書を手にしたことで「叱る」という事が本当に限定的な効果しかなく、叱る事によってほとんど人は変われないし、変わらない、そして叱るという依存に陥る危険性、リスクを理論と脳科学で理解する事が出来ました。
これは私にとっても「叱らない育児」という育児が決して間違いではなく、適切な根拠に基づいて育児が出来ているという根本的な理解と自信に繋がりました。
令和になった今でも、叱ることが教育、という危険な教育方針が日本に充満しています。
私は1人でも多くの人に本書を手に取ってもらい、叱ることのメカニズムを理解してもらい、家庭や学校、職場、そして日本社会において二酸化炭素のように充満しすぎた「叱る」を減っていって欲しいと願っています。
最後までお読みくださりありがとうございました。
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