
アニメ「ドラゴンボール」から見るクズ親と手本になる親
今回は国民的アニメ、ドラゴンボールから子供の子育てについて見ていきたいと思います。
ドラゴンボールと言えば、親子2代、3代で共に敵と戦ったり、地球の危機を救ったりする戦闘アニメなわけですが、子供だった悟空も親となり、その子供の悟飯もまた親になるという世代を超えた物語です。
ドラゴンボールから見る親子関係、子育てというのは結論から言うとあまり参考にはなりません。しかしながら、かつて悪であり敵であった極悪キャラが親ばかな姿を見せたり、さりげないシーンから、「こいつ超クズ親じゃね?」という毒親感満載のシーンもあったりして、教育面でも話題です。
今回はドラゴンボールの様々なキャラクターの毒親ぶり、そして見本となる親の姿の両面を見て、さらに悟空の子である悟飯はどうやってあんなに良い子に育ったのかを見ていきたいと思います。
「父親失格」「父親として最低」という烙印で話題の悟空のクズ発言

結論から言うと、悟空は家族や子育てにまるで興味が無いダメ親と言っても良いでしょう。強い奴と戦うことしか興味が無いばかりか、息子である悟飯に無茶な戦いをさせる始末です。
悟空からすると、悟飯はサイヤ人であり、自分のように戦うことを楽しいと思うのは当然だと考えていたのではないかと推測しますが、そもそも悟空は人の気持ちを察すしたり、尊重するという心が薄いように思えます。
ドラゴンボール超でベジータがブルマのお産があるので修行に行けないと断ると
「おめえが産むわけじゃねえんだから別にいいじゃん」
などと発言したり、また、勝手に人の妻のエッチな生写真をあげることを約束します。つまりベジータの妻のブルマの裸の写真ですね。
この事に対してベジータはこう反論しています。
「自分の妻のをやりゃーいいだろ!! チチの乳の写真を!!!」
これらのシーンがいかに父として、そして夫としての立場で他人を配慮できていないかが分かりますね。ベジータは冷酷なサイヤ人から妻や子供を大切にする「父性」「人間味」(さらにはいじられキャラ、ユーモアさも)が育っているのに対し、悟空はそういった要素は何も育っていない残念さが窺えます。
悟空のクズぶりを決定づけたセル編

作者:鳥山明 ©バードスタジオ/集英社
悟空は悟飯に対しても様々な悲惨な場面でもまるで無頓着な様子を見せます。ナメック星でリクームに首の骨を折られ瀕死になった時も、心配した様子はあまりなく、淡々とした様子で仙豆を食べさせています。
さらにセルとの戦いにおいてはさらに親としてあるまじき事のオンパレードが続きます。
悟空はセルに勝てないと見るや、悟飯に戦いを託します。悟空は悟飯には隠された潜在能力があると見て戦いをさせようとしていたので、それは分かりますが、信じられないのはこの後の行動。なんと、体力を消耗していたセルに対して、仙豆を渡して体力を回復させてしまいます。
セルに負ければ地球は滅ぼされるという重大な局面なのに、です。さらにこの時点で勝てる可能性は悟飯しかいないと言っておきながら、その僅かな確率もわざわざ下げてしまうありさま。そんな中、戦いをしたくない悟飯は父親の身勝手な戦いに臨むことになるのです。
それにも関わらず
「怒れ!悟飯!」
「トドメをさせ!何をしでかすか分からんぞ!」
などと言う始末。もはや父親としてというか、人としてどうなの?と言いたくなる状況です。そんな中、怒ったピッコロがこんなセリフを悟空に吐いています。
「今、悟飯が何を思ってるかわかるか。怒りなんかじゃない。 なぜ、お父さんは僕がこんなに苦しんでいるのに助けてくれないんだろう。僕の命よりフェアな男らしい勝負の方が、大切なんだろうかと」
かつて悪の限りを尽くしたピッコロ大魔王に親としてありえないと言われてしまう始末。
「悟飯、地球の運命のために戦え!怒れ!フェアに戦えるように敵を回復させたけどな!!」
とそんな感じの悟空。クズと叩かれても仕方が無い気がします。
夫としても最悪な悟空
ついでに言ってしまうと、悟空は父親としてだけではなく、夫としても最悪なことが分かります。チチに付き添わされた塾の面接も途中でバックれてしまう始末。
また、チチに「結婚してから一銭だってかせいだことあったか!?」と言われています。つまり完全なるニートだということです。
確かに地球や宇宙を救うという大きな力と使命があるので何とも言えませんが、その力、家族や仕事のためにもっと使う事は出来ないか・・と思ってしまわずにはいられません。
愛情が無かったわけではない
それでも悟空に愛情が無かったかと言われると、そういう訳でもないです。
チチにハイヤードラゴンを山に返すように言われたとき、悟空が密かにハイヤードラゴンの寝床を作ってくれたり、一緒にピクニックや釣りに行く約束をするという場面もあったりして、悟空にとっては悟飯は子供というより「仲間」という意識が強かったのかもしれないですね。
教育という部分に対してはチチの方が厳しく窮屈だったのに対して、自由奔放な悟空はある意味止まり木のような存在だったのかもしれないですね。
毒親と言われがちな教育ママのチチ

作者:鳥山明 ©バードスタジオ/集英社
チチは典型的な昭和の「教育ママ」。悟空が戦い、戦わせることが全てなら、チチは勉強して安定した職業に就くことが全てだと考えています。
世界の平和より悟飯の勉強を心配するなど、過干渉であり、過度の重圧を与えすぎているという側面が強いですね。
こうした過度の期待を寄せたり、勉強を強要することは教育虐待にあたることもあり、子供の精神や情緒に大きな悪影響を及ぼす恐れすらあります。
しかし悟空に比べると悟飯の事を常に心配しているのは確かで、母親としての愛情は存在しています。悟天に対しては2人目からか、比較的緩く育てている印象が強いですね。
命を賭して悟飯をかばう。心の父としてのピッコロとの関係性は?

作者:鳥山明 ©バードスタジオ/集英社
ピッコロは悟飯と血のつながりはないものの、ピッコロが悟飯に与えた影響は大きいです。
ピッコロは悟空がラディッツ戦で亡くなった後、サイヤ人が襲来するまでの間、悟飯にサバイバル訓練をさせています。そこで生き抜くための精神的、肉体的な強さを育てました。
当初はサイヤ人に備えるために冷徹に悟飯に試練を与えたピッコロでしたが、悟飯を見守り、育てるうちに、徐々にピッコロにとって守りたい存在へと変化していきました。自分の命を賭して悟飯を庇ったシーンはまさに「親の自己犠牲」であり、無償の愛のようなものを感じます。
その後は悟飯にとってもピッコロは父親のような存在であり続け、ピッコロも悟飯のピンチの時には常に駆けつけるなど、まさに父子のような存在であり続けました。
さらにピッコロにとっても悟飯を通じて邪悪な心が消えていき、神様と融合し本当の力を手にするきっかけにもなりました。
セル編ではピッコロと同じ服を欲しがるなど、血縁的な関係は悟空を「父」としながらも、憧れの「父」としての姿はピッコロに投影されていたのかもしれません。
冷酷なサイヤ人から親ばかへ。トランクスを抱きしめ、出産に立ち会う父親としてのベジータ

作者:鳥山明 ©バードスタジオ/集英社
最初は冷酷非道なサイヤ人として登場したベジータ。
後にブルマとの間にトランクスを授かりますが、当然ながら育児にはまるで興味なし。妻子の命もまるで関係無いと言わんばかりでした。
しかし、未来から来た自分の息子であるトランクスがセルに殺されたとき、なりふり構わずセルに立ち向かうシーンがあります。これはトランクスを息子として愛情が芽生えた証拠でもあるとも言えます。
そして魔神ブウ編ではトランクスを抱きしめて家族のために命を犠牲にする場面も登場します。冷酷なサイヤ人から、愛情深い一人の人間へと成長していったのです。
そして先述した通り、妻のブルマの裸を見せる約束を悟空が勝手にすると怒るなど、愛妻家としての姿を見せると共に、ユーモアのあるいじられキャラへと変わっていきます。こうしてずっと純粋な戦いを求める悟空に対してベジータは父親として、夫として、そして人として大きな変化を見せてきました。
そしてベジータは悟空に対してこんな事を口にしています。
「キサマは悪いヤツじゃないかもしれんが・・父親としては最低だな」
戦いは悟空がナンバーワンでも、父親としては圧倒的な格の違いを示した言葉なのかもしれません。
なぜ悟飯はあんなに良い子に育ったのか?
無謀な父親に教育熱心な母親。実際ならかなり教育面や発達に悪影響がありそうな環境ですが、悟飯が立派に育った理由は何だったのでしょうか?
考えてみた結果、3つ答えがあります。
・戦いと勉強の才能があった
・逃げ場や心の拠り所があった
・環境のバランスがとれていた
戦いと勉強の才能があった
サイヤ人との戦いからセル戦など、とにかく悟飯には戦闘の才能がありました。5歳にしてすでに悟空の同時期の戦闘力は凌駕していて、さらに怒ることで圧倒的な戦闘力を発揮することが出来ました。
さらにナメック星の長老に潜在能力を引き出して貰ったにも関わらず、さらに老界王神にもさらに能力を引き出されるなど、戦闘の潜在能力は底なし。戦いについていけなくなるようなことは全くなく、終止前線で戦い続ける才能があったようです。
さらに大人になり学者になったこともあり、同様に学習能力の才能も桁外れだったのではないかと考えられます。父親に戦いや遊び、そして修行に駆り出されながらも、大人になって学者になるというチチの望みを叶えています。
悟空とチチの期待というのはかなりハードルが高く、重圧もすごいはずです。その2つを見事に応えていったのは、まさに悟飯の底知れぬ才能があったからだと感じます。
しかし現実的には子供は親の期待に応えられないのが当たり前です。普通の子供はそういった期待に押しつぶされてしまい、精神的に病んでしまったり、非行に走ってしまう可能性は高いです。
親もまた子供の才能に助けられ、子供も親の希望にすんなり応えられたという教育的には参考にならない例と言えるかもしれませんね。
逃げ場や心の拠り所があった
悟飯は普通の子供と違いたくさんの逃げ場や安心できる存在があったのも理由の1つかもしれません。
基本的に親の過度な勉強を強いられても普通の子供には逃げ場がありません。それは外で生きていく力やお金を稼ぐ力、環境が無いからです。
しかしピッコロのサバイバル訓練や、飛ぶことも出来るから他の子供に比べて自由に生きられる選択肢が心にあったのかもしれない。
さらに戦いからはある意味逃げることは出来なかったけれども、世界平和のためや、仲間のために戦うことには一定の使命感があったと感じていたのかもしれません。さらにサイヤ人の血を引いていたため、戦うこともそれほど嫌では無かったのかもしれないと感じていた可能性もあります。
さらには脳天気な父親と、父親のように見守ってくれるピッコロの存在も安心材料になったのかもしれないです。逃げ場があり心の拠り所がある。だからこそ重圧に押しつぶされない心の余裕があったのかもしれませんね。
環境のバランスがとれていた
教育過多の母親と、無謀で無関心な父親。一見するとかなりのトンデモな毒親の元で育ったと感じますが、ピッコロの存在も相まって悟飯の教育的なバランスは取れていたのかもしれません。
母親の過度の勉強も父親の勉強の無関心さ、脳天気な性格によって遊びに行ったりするなどして追い詰められることもあまり無かったし、無謀な戦いをさせるという父親の心無さも、ピッコロという命を張って守ってくれる存在がいたからこそ、命と安心感をくれていたのだと感じていたのかもしれません。
そしてそれぞれにそれなりの悟飯に与えた役割も大きいと言えます。チチは学力や礼儀、社会性を育み、悟空は戦闘力を引き出しながらも、悟飯に安らぎを与えて、ピッコロは精神的成長や親としての見守られているという愛情を与えたのでしょう。
この3つが上手く与えられ、それに悟飯も素直に受け取った結果なのかもしれません。
まとめ
様々なキャラクターの親としての役割や変化、そして悟飯の成長について考えていきました。
悟飯には様々な要因があって優しい子、優れた子に育ったが、現実的な問題としてはほとんど不可能だったと言えるでしょう。結果的にあらゆる才能が悟飯にはあり、サイヤ人という血流が親の様々な期待に応えるという難題をこなせたのかもしれないですね。
現実世界では子供が親の期待に応えることはほぼしない、不可能だと考える方が良いでしょう。
もっともドラゴンボールは教育漫画ではないため、科学や根拠に基づいた教育がされている訳ではないですが、こうした身近なアニメなどから、子育てを考察し、良いと思うところを学んでみるのも面白いと思います。
あなたはドラゴンボールからどのような教育を子供にするべきだと考えますか?
最後までお読みくださりありがとうございました。
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