私の望みは、死んでもなお生き続けること!
今回は小林エリカさんの「わたしはしなないおんなのこ」という絵本について考えていきたいと思います。
この本のコンセプトはアンネの日記の中にある「私の望みは、死んでからもなお生き続けること!」という言葉を着想そて作られた絵本だそうです。
それにしても死んでも生き続けるというのはどういう事なのでしょうか?
今回何度も熟読してみましたが、シンプルなようで難しい・・
分かるようで分からない・・
人によっては怖い、不気味という声もあるこの絵本。
その真意はどういうものなのか?
内容を把握しながら考察していきましょう。
わたしはしなないおんなのこのストーリー
ある時、1人の女の子がいました。
女の子は考えました。
「死ぬのは嫌だな。死にたくないな。」
女の子はそれを歌にして歌ってみました。
「♪わたしはしなないおんなのこ~」
それを聞いたねずみは歌を気に入り同じように歌いました。
女の子はやがて年をとり死にました。
ねずみは子供を増やし、いろんなところで歌を歌いながら移動しました。
それをねずみを食べようとした猫が、くっついていたノミが、ねずみが川に落ちた鰻が、その歌を聴きました。
みんなその歌を気に入り同じように歌いました。
やがてねずみは猫に食べられ、年をとり、水に溺れて死にました。
でも猫やノミや鰻は歌を歌い続けます。
それから長い年月が過ぎ、小さなアパートのひとへやで1人の女の子が耳を澄ませています。
歌が聞こえてきたからです。
その歌を聴くと、女の子は不思議とひとりぼっちではない気持ちがしました。
女の子の部屋でも、すずめが、パンジーが、ぬいぐるみたちがその歌を聴いていました。
女の子は歌を歌い始めました。
すずめやパンジー、ぬいぐるみたちも歌います。
「♪わたしはしなないおんなのこ~」
女の子は、女の子達は、今生きていました。
わたしはしなないおんなのこ 参考、出典:著者 小林エリカ 出版社:岩崎書店
わたしはしなないおんなのこの考察
いかがだったでしょうか?
生き続けること、の意味は分かっていれば何となく理解が出来るけど、女の子は実際に死んだわけだし、今生きていた、というのはつまりどういうことなのか?難しいですよね。
まずはこの本の謎をいろいろ私なりに考察してみようと思います。
なぜ、「女の子」なのか?
まずタイトルのわたしはしなないおんなのこですが、そもそもなぜ「女の子」なのか気になりました。
これは恐らく作者の小林エリカさん自身の幼い頃の姿を投影しているのではないかと思います。
小林さんのあとがきに
「私は子供の頃、死んで、忘れ去られ、失われてゆくことが、怖くてしかたありませんでした。」
という一文から始まります。最初に出てくる女の子と心境が同じだったんですよね。何より小林エリカさんの死と生き続けることを書いているので、これは小林さん本人なんじゃないかと考えています。
小林さんを調べたときに、小林さんとこの女の子の容貌が似ているなと感じました。(私だけ?)
死がなぜか怖くない
この絵本は死ぬことが書かれています。最初の女の子が死ぬのが嫌だなと言っているように、死は怖いもの、嫌なものという感じがしますが、なぜかこの絵本で死というものをあまり恐怖だとは感じません。
それはこの絵本のメインカラーがピンク、黄色、青を中心に使われているせいなのかなと感じます。パステルカラーの色というのはどちらかと言うと、鮮明な「生」を感じさせる色です。
死の色というのは、紫、黒などの色が暗い色ですね。そう考えると、死の恐怖よりも生への喜び、というものを感じさせます。
死ぬ、食べられる、溺れる、などの表現がある割にどことなく明るいのはそのせいなのかなと思います。
この絵本の中での「死」とは?
結局この絵本で言われている「死」とは何なのかというと、忘れ去られる事への死なのだと思います。
人は二度死ぬと言われてますね。一度目は肉体の死。二度目は忘れ去られる事の死と言われています。この二度目の死にフォーカスしたお話が今回の絵本です。
この絵本の中では最初の女の子は明示されているように、年を取って死んでいます。ねずみたちも食べられたり、年をとって死んでいます。つまり肉体的には滅んでいるわけです。
なのに女の子達は生きていた、というのは肉体的な死を差したら矛盾していますね。
肉体的な生には限界があります。しかし、誰かが覚えている限り、誰かに想いや言葉が受け継がれている限り、二度目の死はない、のかもしれません。
知らない誰かの歌を歌い、知らない誰かの言葉を見ている
この本を読んで私なりに3点、思うところがあります。
- 知らず知らずに多くの人たちの言葉や歌を継いでいる
- 言葉を持つ私たち人間しか受け継がれない
- 肉体的に死なない不老不死は幸せなのか?
知らず知らずに多くの人たちの言葉や歌を継いでいる
私たちは歴史や音楽などを通して多くの人たちが生きた証を耳にしています。
もちろん有名な人たちが遺したものもたくさんあります。俳句や短歌、童謡など。
しかし、中には作者不詳のものもたくさんあります。
「さくらさくら」や「ちょうちょ」
「古今和歌集」にもよみ人知らずと呼ばれる作者不詳の詩があります。
私たちは知らず知らずに名前の知らない誰かの歌や想いを耳にしているのかもしれません。
名前も知らない。でも誰かがそれを思いつき、作り、死に、名前も知らない誰かがずっと歌い継ぎ、現在まで継がれている。とてもレアな感じがしますが、実はそういったものが身近にあるのです。
さらには私たちは子供の頃、誰が作ったかよく分からない遊びをいつの間にかして、誰がやったかよく分からないギャグネタが流行り、それを学校で使ったりなんかしていました。
でも私たちの小学校じゃない誰かが思いついたり、誰かがネタを作ったのは間違いないし、それが今なのか、もっと昔なのかすら分かりません。
耳を澄ませばそこに誰かの想いがふと生きているのかもしれません。
言葉を持つ私たち人間しか受け継がれない
この絵本の中では動物や花、ぬいぐるみたちも女の子の歌を歌っていますが、実際に受け継ぐという行為は人間にしか出来ません。
厳密には子孫を残すことで動物も遺伝子的には生を受け継ぐことは出来ますが、言葉や文字の無い動物はそれによって先祖がどこで何をしていたか、どうやって生きてきたかなどを知る手立てはありません。
逆に私たちは言葉や文字があるからこそ、過去に何があったか、先祖が何をしてきたか語り継ぐことが出来るのです。言葉というのはそれほど私たちにとって重要であり、欠かせないものなのです。
肉体的に死なない不老不死は幸せなのか?
この絵本の中では忘れ去られる事による死、語り継がれることによる生として書かれていますが、私なりに第一の死である肉体的な死について考えてみたいと思います。
語り継がれることによって生きているというのがこの絵本の話ですが、逆に肉体的に生きている、というのは不可能ですが、果たしてそれは幸せなことなのでしょうか?
よく漫画の悪役が口にする「不老不死」。自分は永遠に年をとることも死ぬこともなく、無限の欲求を満たし生き続けること、でもそれを永遠に続けたとして、果たして幸せなのでしょうか?
例えばフリーザ様があのまま不老不死を得たとして、宇宙の果てまで征服したとしても、果たして自分の望み通りに生きられただろうか?
宇宙は果てしなく広く、いずれ自分がどうしたって叶わないヤバい奴らと戦いコテンパンになるわけです。そして自分の望みは全て絶たれ、全てを失い、それでも幸せなのでしょうか?
仮に全て思い通りに上手くいったとしても限りない欲望に永遠と生き続けることは不幸でしかないと思います。
人が幸福を感じられるのはひとえにいつか死ぬからです。いつか終わりが来るからです。
私も育児をして、本を読み、ブログを書いている。それは好きでやっていることです。しかし、永遠に続けろと言われると多分地獄でしかないです。
いつかどこかで終わりが来るから、永遠ではないと分かっているから、どことなく楽しいと思えるのです。
肉体的に生き続けることは決して幸福とは言えないでしょう。
終わりのない答えを探す、それが絵本の楽しさ
という感じでしたが、いかがだったでしょうか?
この本に関して明確な答えを出すのは難しいです。二度目の死を死と呼べるのか、理解できるのかは人それぞれですし、死に関して誰でも納得できる結論を付けるのは難しいです。
しかし絵本の面白いところは、こうした想像や考察をして、改めて自分たちが考えてこなかった身近な問題について考えられるところなのかもしれませんね。
幼児向け、とは決して言えません。小学校高学年以上向きであり、難しい内容の話ですが、限りないテーマについて子供達と一所懸命議論するのも良いかもしれません。
いつかあなたが、あなたの子供が、ずっと語り継がれるような何かを思いつくかもしれません。
最後までお読みくださりありがとうございました。
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