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フランス革命で処刑された人、マリーアントワネットの心の闇
1789年に起きたフランス革命はこれまでの絶対王政の時代から現代に至る民主主義の時代へと移り変わる大きな転換点となりました。フランス革命が起きた大きな原因は貴族や王族による税金の搾取と贅沢三昧の日々。それによるフランス王家の財政破綻が大きなきっかけでした。
特にフランス王家を大きく傾けたとされるマリーアントワネットの莫大な浪費と贅沢の数々。

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彼女の存在はフランス庶民の憎むべき敵であり、後にギロチンによって処刑される彼女はフランス革命の象徴的存在となりました。
彼女はなぜそれほど国の財政を使い贅沢の限りを尽くしたのか?そしてフランス王家の財政破綻は果たしてマリーアントワネット一人の責任なのか?そしてマリーアントワネットをそのような狂気に駆り立てる性格は幼少期の教育に問題は無かったのだろうか?
これらの真実を紐解いていくと共に、母であるマリアテレジアの教育に問題があったのか?誰がフランス王家に嫁げばフランス革命を防ぐことで出来たのか、という教育という分野、そして歴史のifの部分から考察してきたいと思います。
「かわいい」、「美人」と話題の母。マリアテレジアの若い頃と「女帝」としての生涯
まずマリーアントワネットを語るうえで欠かせないのが、母であるマリアテレジアの存在です。

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マリアテレジアはハプスブルク家に生まれました。ハプスブルク家は代々男子が家を継ぐことになっていましたが、父のカール6世は男子を授かることが出来ませんでした。しかし自分の子に王の座に就いて欲しいと考え、自身が亡き後はテレジアに後を継ぐように周辺国に根回しをしていました。
その後彼女はオーストリアで初の女性の当主となりましたが、父の根回しもむなしく、女が治める国として周辺国からなめられ四方八方から領土を攻められました。しかし、外交や軍事、教育制度を鮮やかな手腕で改革し、オーストリアを守り抜きました。
彼女は当時は珍しい恋愛結婚をしました。政務を取り仕切る一方で毎年のように子供を産み、16人の子宝に恵まれました。マリーアントワネットもその一人です。

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フランスとの同盟、その後革命を見ることなく急逝。死因は肺炎
当時のオーストリアはプロイセンから攻撃を受け、オーストリアにとっても重要な地をプロイセンから奪われていました。そのため、長年の宿敵であるフランスと王家と同盟を結ぶ必要性を感じていました。
フランスと同盟を結ぶにあたって同盟の証として輿入れで選んだのがマリーアントワネットだったのです。こうしてルイ16世とマリーアントワネットが結婚し、フランスとの同盟は成立しました。
こうして宿敵のフランスと手を組んだオーストリアですが、テレジアはその後に起きるフランス革命における娘の悲劇を知ることはなく、オーストリアで肺炎のため亡くなりました。
「朕は国家なり!」。フランス国民を苦しめたギャグのような言葉
話をマリーアントワネットに戻して、フランスの財政破綻の主な原因は何だったのかを見ていきましょう。
結論から言うと、フランス王家の財政破綻とフランス革命の原因はマリーアントワネットが大きな原因とは必ずしも言えないです。
理由は、フランス王家はルイ14世の時代から莫大な浪費をしていたからです。ルイ14世の頃から、フランスの財政を圧迫した始まりとなっています。

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「朕は国家なり」。すなわち「国と言えば俺でしょ!」という中二病でジャイア二ズムに近い発言で有名です。彼の頃に豪華絢爛なベルサイユ宮殿を建設し、オランダ戦争やスペイン継承戦争などの戦争にも関与し、多額の国家予算を歳出しました。
さらにその後、ルイ15世もオーストリア継承戦争やアメリカ大陸でのイギリスとの戦争に関与し、財政を圧迫しました。さらに平民や娼婦の出身の女性を愛人として近くに置き贅沢をさせたことも国民の不満を募らせた原因でもありました。
アンシャン・レジーム(古き体制)に苦しむ第三身分
そして夫であるルイ16世の時代にもアメリカ独立戦争に関与しましたが、それによりさらに財政が悪化。そしてこうした積み重ねが大きな財政破綻につながったのです。さらにこうした財政圧迫にも関わらず貴族や聖職者には一切税金を取らなかったのが大きな問題となりました。

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これだけ莫大な財政危機を迎えながらも豊かな貴族や聖職者たちは一切の税金を払わず、第三身分と呼ばれる貧しい市民に対して税金を厳しくしたことが市民達の怒りを爆発させる原因になりました。一方マリーアントワネットの浪費はかなり高額だったのは間違いはないですが、国を大きく傾けるほどの支出にはなっていません。
マリーアントワネットの支出は国家予算の0.1%以下となっていて、日本円に換算すると450億円~640億円と推定されています。もっとも、1人の人間が使う額としては破格であったことには変わりませんが・・。
他の貴族達も少なくとも年間億を超える額を浪費していたことを考えると、国家予算の破綻はマリーアントワネット1人の贅沢のせいとも言えないのです。
プチトリアノンに引きこもるマリーアントワネット。その心情は?

次にマリーアントワネットがそれだけの浪費をした理由を探ります。主な理由はフランスの超格式社会のストレスについて行けなかったからです。
フランス王家では朝起きたときから夜寝るときまで多くの人たちに見られているというのが一般的でした。下着を着るのでさえ貴婦人が順番に渡すというしきたりがあったようです。そのためマリーアントワネットもフランスの寒い朝を裸を晒して待っている有様だったようです。
食事も公開されていて、多くの人が見ている中で作法だらけの中で食事を取らなければなりませんでした。このように全てが「儀式」として見世物のようになっていたフランス王家で過ごすことはマリーアントワネットにとっては牢獄のような生活でしかなかったのかもしれません。
逆にオーストリアで過ごしていた頃は、もっと自由だったようです。私的空間もあり、マリーはのびのびと過ごしていたようです。母のマリアテレジアは国政を執るので忙しかったこともあったのかもしれませんね。
もともとフランスの文化に慣れていない外国の少女が24時間監視社会に生きる、という方が無理だったのかもしれません。
ルイ16世の趣味は錠前作り。奥手でオタク気質の夫との距離
さらには夫となったルイ16世との結婚もあまり良好とは言えなかったようです。

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ルイ16世は内気で不器用な性格であり、マリーアントワネットに対してもおどおどした態度を見せていました。さらには錠前、カギ作りに没頭していた、錠前オタクでした。内気で女性に対して不器用なオタク、淡い恋心を抱く14歳の少女としては落胆するのも無理はないでしょう。
さらには外国人で言葉も文化も違うマリーアントワネットにとっては孤独や閉塞感を感じていたでしょう。そしてもともと200年近く敵対していたフランスですから、同盟が成立したからといって、快く思う人ばかりではありませんでした。
マリーは心許せる一部の友人だけを贔屓したりして、自分と合わない人間は無視したり、遠くに追いやってしまうなど、自己中心的な振る舞いをするようになりました。さらにはプチ・トリアノンという離宮を建てて、ルイ16世と離れて暮らすようになり、窮屈なベルサイユ宮殿から離れてのびのびと暮らすようになります。
マリーアントワネットにとっては自由に過ごせる心の拠り所だったようですが、こうした浪費や別荘で過ごす行為が貴族や農民達の怒りの矛先が向けられるようになりました。
兄弟が多く、母親の愛を注がれなかったマリーアントワネット

ここからはマリアテレジアの「教育」という部分からマリーアントワネットを見ていきましょう。マリーアントワネットが浪費三昧の日々を送ったのは、フランス王家だけではなく、マリーアントワネットにも問題があったかどうかです。
マリーアントワネットはマリアテレジアの15番目の末娘として誕生しました。マリアテレジアは15番目の子供、それに女の子ということもあり、マリーアントワネットに対する教育は比較的甘かったと言われています。まあ、国政も忙しかった上に、既に15人も子供が生まれているのであまり面倒を見ている暇もなかったのかもしれません。
さらにテレジアには既に男の子であるヨーゼフ2世やレオポルド2世を生んでいるので、お世継ぎとしては既に安泰でした。テレジアが女帝として国政を執っていたのはあくまで父に男子が生まれなかったからで、待望の男子が誕生してからは、女性に政治や軍事教育を学ばせようという気はなかったのでしょう。
なのでマリーアントワネットに対しては、主に音楽やダンス、礼儀作法などに力を入れていました。音楽やダンスなどの分野は得意でした。しかし、フランス語やイタリア語などの言語は苦手でした。つまり得意苦手は割とはっきりとしている感じの子供だったわけですね。
ですが、マリーアントワネットは天真爛漫で人なつっこい性格で、姉や兄にも可愛がられる性格でした。マリアテレジアとしては、マリーアントワネットを政治や軍事手腕に優れた統治者よりも、「王家の花嫁」としてふさわしい女性になってほしかったのかもしれません。
これはハプスブルク家という家柄らしいとも言えます。ハプスブルク家にはこんな家訓があります。
戦いは他のものに任せよ、汝幸いなるオーストリアよ、結婚せよ。
これはつまり、ハプスブルク家の真骨頂は政略結婚であるということです。これに倣ってマリーアントワネットも言わば政略結婚の駒の1つでもあったと言えます。
マリーアントワネットとマリアテレジアの手紙から見える母子関係
このように幼少期を見ていると、マリーアントワネットは人懐こい明るい子ではあるが、忍耐力の少ない子、自由で天真爛漫な娘という印象が強いように思います。
格式高く、監視社会であるフランス王妃として嫁ぐというのは、マリーアントワネットの適正に合っておらず、それを見極められなかったマリアテレジアの母として、統治者としての「過ち」であったのかもしれません。
さらにマリーアントワネットもこのフランスでの窮屈で孤独な状況を手紙で記しています。
Je n’ai ici personne en qui je puisse avoir entière confiance… tout est si différent de Vienne.
訳
マリーアントワネットの手紙より
ここでは、心から信頼できる人が誰もいません…ウィーンとは何もかもがあまりに違います。
こういったマリーアントワネットの孤独や不安に対してのマリアテレジアの返答は厳しいものでした。
Meine Tochter, Sie sind nicht hier, um sich zu beklagen, sondern um Ihre Pflicht zu erfüllen.
マリアテレジアの手紙より
訳
娘よ、あなたはここで不平を言うためにいるのではありません。義務を果たすためにいるのです。
このように、厳しい返答や指導、叱責の手紙を送るばかりでした。当然重要な同盟だったのと、娘の振る舞いを諫めるものだったと言えるでしょうが、もし母として娘の苦しみを共感してあげることが出来たら、違った結果もあったのかもしれません。
現代でもそうですが、自分の適性や合わない仕事をしていると、精神的に追い詰められてしまいます。しかし、上司や同僚に相談しても、「もっと頑張れ」「みんな我慢している」などと言われてしまうと、さらに追い詰められてしまいます。そうして結果爆発して思わぬ不利益やトラブルを被ってしまうなんて話がありますが・・。
こうした我慢の強要の末に起こったのが、過度の浪費という現実逃避とフランス革命という悲劇だったのかもしれません。
もしくは、そもそもマリーアントワネットに自由結婚を許してあげるという選択があっても良いのかもしれません。マリアテレジア自身も恋愛結婚でしたし、マリーアントワネットの姉にあたる、マリアクリスティーナはマリアテレジアに溺愛され、恋愛結婚を許されていました。
自由で天真爛漫な性格を大いに活かせるという意味でも、堅苦しい政略結婚などではなく、自由な恋愛をさせるのが良かったのではないかと考えてしまいますね。
歴史のif。敏腕だったマリアカロリーナ。さらにわがままだったマリアアマーリアがフランス王家に嫁いだら?

ここからは歴史のifとして、もしマリーアントワネット以外の姉妹がフランス王家に嫁いでいたらどんな未来があったのかを見ていきたいと思います。マリーアントワネットには他にも姉妹がいました。
マリア・カロリーナそしてマリア・アマーリア。この2人を焦点にフランス王家に嫁いでいたらどうなっていたか見ていきましょう。
マリア・カロリーナ

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マリア・カロリーナはどちらかと言うと母マリアテレジアに似て聡明な女性であり、現実主義者の一面もありました。マリーアントワネットと異なり語学や政治、歴史に関心を持ち礼儀だけでなく、政務の能力も磨きました。
後にナポリに嫁ぎますが、夫が政治に無関心だったため、実質的に国政を主導します。その手腕は割と敏腕で、教育、報酬面で男女平等社会を作りあげていくなどの社会を作りあげていきました。フランス革命の勃発の際はイギリスのネルソン提督と連携し、革命軍に対抗、革命思想の拡散を防ぎました。
このようにマリア・カロリーナは夫が無能でも実質的に政治をしていく腕前もあり、民衆に対しても善政を行う実力は十分にあったようです。
なので、ルイ16世は優柔不断で穏やかなので、同じく夫を上手く操ることは出来た可能性があります。さらに保守的な宮廷の貴族達も上手く味方につけたことでしょう。さらに民衆にも教育の引き上げを行うなどの政治を行っていたことから、民衆の貧困や不満を解消して、フランス革命を回避することが出来たかもしれません。
しかしながら史実では革命軍に対しても強行に対抗したことからも、もしフランス革命が起こったら強大な民衆と王家による衝突が起こった可能性があります。このようにマリア・カロリーナであった場合は、フランス革命は起こりにくかったと想像が出来ます。
マリア・カロリーナは実は、マリーアントワネットよりも先にフランス王家に嫁ぐことが決まっていました。しかし、ナポリに嫁ぐはずだったマリア・ヨゼファが天然痘により急逝。
そのためマリア・カロリーナは嫁ぎ先が急遽ナポリに変更になったという逸話があります。この時予定変わらずマリア・カロリーナがフランス王家に嫁いでいたら、フランス革命の悲劇は起きなかったのかもしれません。
マリア・アマーリア

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マリア・アマーリアは一言で言ってしまえばマリーアントワネットよりも天真爛漫な人物と言えるでしょう。マリア・アマーリアは誰よりもマリアテレジアに反抗的で、マリアテレジアも彼女のことを厄介者としていたようです。
彼女は姉のマリア・クリスティーナが恋愛結婚を認められているのに、自分は認められず破談となったことから、母に反抗的になったと言われています。後にパルマに嫁ぐことになるのですが、そこでも夫とは不仲で、浪費や贅沢の限りを尽くし、平然と浮気をしていました。
最終的にはマリアテレジアには勘当されるなど、とにかく母との不仲は相当なものだったと分かります。彼女がもしフランス王家に嫁いでいたら、マリーアントワネット以上にフランス王家崩壊を早く招いたかもしれません。
さらに特筆すべきは母との不仲があったこと、夫とも不仲だったことからフランスとオーストリアの同盟は破棄され、戦争になっていた可能性もあります。彼女の輿入れは史実的にもあり得なかったかもしれません。
ベルばらなどから分かるマリーアントワネットとフランス革命
フランス革命の兆しはマリーアントワネットが嫁ぐ前から存在していました。そして王政廃止という動きは遅かれ少なかれいずれは起こり得るものだったと思います。その最後の導火線をマリーアントワネットは火をつける1つのきっかけに過ぎないのです。
絶対王政の時代はいつか消えていくものだったとは思いますが、どうしたらこの悲劇を防げたのか、どのようにすることがその人の最善だったのか、を考えるのもまた面白いのではないかと思います。
ちなみにマリーアントワネットの孤独やマリアテレジアの悩みや心情はマンガ「ベルサイユのばら」にも描かれています。マンガだけの想像だけではなく、実際に複雑な心境があったことをうかがわせる現実に沿ったお話です。(オスカルは実在していませんが)。
是非下記のような資料を参考に歴史のうねりと彼女たちの心境を想像し、考えてみてください。
最後までお読みくださりありがとうございました。
分かりやすい参考資料

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