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エホバの様々な実態を調べた結果
今回はエホバの証人について私の経験や周りの人たちの様子、そして私の思うことなどを話していきたいと思います。今回エホバの証人の実態について、こちらの書籍を通して元信者の方の経験談や感じていたこと、そして信者を脱退するまでを調べてみました。
これらの書籍はエホバの証人を信仰していた親たちに強制的にエホバの教義や立ち振る舞いについてを学ばされ、洗脳されて育つわけですが、宗教上の理由で学校や友達と遊べないことも多く、教義を信じながらも普通に過ごせないことに彼らは疑問が生まれていきます。
そして自分の子供の輸血拒否の強要や、エホバで起きた性的虐待などの事件をきっかけに少しずつエホバの証人の実態を知るようになり、やがてエホバの証人から離れてこの世の中の生き方を歩んでいく、というお話です。
その他にも鞭での体罰、学校行事の参加禁止や進学の禁止など、さまざまな制約をかけられ精神的に追い詰められてしまう子供達が後を絶たず、苦しめられて来たという事実を物語っています。
親が信者なら子供も信者として育てられ、そこから逃げることが出来ずにたくさんの不幸や犠牲になる子供達が増え、いわゆる「宗教二世」問題として世の中に現状を訴えています。
そんなエホバの証人とはどんな宗教なのか、見ていきましょう。
エホバの証人の誕生と日本で歩んだ歴史
エホバの証人は1800年代のアメリカでチャールズ・テイズ・ラッセルという人物が興した新興宗教です。もともとラッセルはキリスト教徒で、両親と共に熱心に信仰していました。

出典:Wikimedia Commons
ライセンス:パブリックドメイン
しかし、ラッセルは聖書を研究しているうちに、聖書の教えの一部に対して懐疑的な部分があることに嫌悪を抱いていました。それが「運命予定説」です。
運命予定説とは、地獄に行くか天国に行くかはあらかじめ決められているという考え方です。つまりどれだけ熱心に信仰していても地獄に行く人は地獄、逆に信仰せずにどれだけ自堕落な生活をしていても天国に行ける人は行けるという思想です。
「それっておかしくね?」とラッセルと感じ、聖書そのままの教えに疑問を持ち、新たな解釈をするようになりました。さらにラッセルはイエス・キリストは神ではなく、神の子であるとし、真の神、この世の全てを創造したエホバ(ヤハウェ)であるとしています。
1913年、アメリカで日本人がエホバの証人となり、その後日本に帰国し、伝道を開始します。戦前、戦中は天皇崇拝が国家宗教的な役割を持ち、宗教的中立や兵役拒否は反国家行為と見なされる状況でした。そのため多くの信者が投獄や拘束を受け、迫害されました。
戦後は社会混乱や価値観の多様化が広がり、エホバの証人の信者も増えていきます。こうして日本には現在20万人以上の信者がいるとされています。
エホバで起こった社会問題。輸血拒否と虐待。大ちゃん事件と、キャンディス・コンティ事件について

こうして日本のみならず、世界中でエホバの証人の信者が増えていく一方で、その教え、そして組織に大きな社会問題が生じていくことになります。
輸血拒否事件
エホバの証人は聖書の解釈により、血を食べること、そして血を体内に入れる、輸血は禁じられています。それにより輸血をすれば助かるにも関わらず輸血を拒否したことにより亡くなったという事例が多々あるようです。
このエホバの証人の輸血拒否の事例で有名なのが1985年に起きた大ちゃん事件です。エホバの証人の子供だった大ちゃんが事故に遭い、ダンプカーに轢かれてしまうという事件が起こりました。
両下肢開放骨折という重傷だが、輸血をして手術をすれば助かる予定でしたが、信者の両親が輸血を伴う手術に同意しませんでした。それにより救えるはずの命を救えず、大ちゃんは亡くなってしまうという痛ましい事件でした。
これは書籍になり、そしてビートたけしさんが主演を務めた「説得」というドラマで忠実に再現されています。これは本人の意思と信仰を尊重をするのか、人命を第一とするのかを考えさせられるドラマなので是非一度見て頂きたいです。
私たちからすると、信仰のために子供の命を捨てた非常な親と邪教であると言えるかもしれませんが、信仰している側は、大真面目であり、「死ぬ権利」と「信仰の自由」が認められている現代において一方的な批判はできないのかもしれません。
しかし、人命という最も尊い命に対して、子供より信仰を取るケースは医療従事者、そして一般倫理において非常に疑問視されている課題ではあります。
性的虐待事件

輸血拒否事件に関しては本人の意思の尊重という仕方ない場面もありますが、信仰する側にもそして信仰しない側にとっても看過できない大きな事件がありました。それがエホバの証人の組織内で起こった性的虐待事件です。
2012年にキャンディス・コンティさんというアメリカの女性信者が長老と呼ばれる偉い立場の人物から9歳から性的虐待を受けていたという事実を世界に告発した事件が起こりました。
この事件がきっかけに世界各地で同様の被害にあった人たちが声を挙げ、特にオーストラリアでは1000件以上の虐待のケースが存在していたにも関わらず、警察への被害届は全くされていなかったようです。なぜなら加害者は口外したら排斥(つまりエホバから破門される)されると脅されていました。
排斥されたら親や友人達からの信者からとの関係を絶たれ、エホバの証人という関係性でしか生きてこなかった人たちは生きる場所を失うのと同じです。こうした閉鎖的な内部構造を利用し、罪を犯していた人が多く存在するのです。
もちろんこれは世間のみならず、エホバという神に対する背信にも関わらず、世に出ることを恐れたエホバの証人という組織そのものがその事実を明るみにしなかったという罪深さもあります。これをもとにエホバへの批判と組織の体制への不信や改善はせざるを得ない状況になると想像できます。
誕生日会に国歌斉唱もダメ。孤立した信者二世の不幸

さらに現在まで問題視されているのが信者二世問題です。二世問題とは信者の親であれば、強制的に子供にもその信仰を子供にも強制されるというものです。
親や教えに何も疑問を感じずに生活していければ問題は無いのですが、子供達は信者とは無縁の世界の子供達と一緒に学校や近所で生活しています。
しかし、エホバの証人は禁止事項が多く、学校や野外活動で子供達と同じように行動できないため、友人が出来なかったり、いじめ被害に遭うなど、世間一般からは非常に生きづらい思いをしている子供が多いのです。
例えば信者の子供達は校歌や国歌斉唱などをすることは出来ません。またクリスマスや節分、七夕などの伝統やお祝い事の参加も出来ず、誕生日会なども祝うことが出来ません。また、剣道や柔道と言った格闘技や争いと見なされるスポーツは全て禁止とされています。
当然神社や寺院への参拝も禁じられているために、修学旅行などはかなり行動が制限されています。このように外の世界で生活するうえでは不便が多いですが、もちろん子供達はそんな窮屈な生活を「当たり前」だと感じている子供ばかりではありません。
「なぜ私だけ友達の誕生日会に参加してはいけないの?」
「本当はスポーツ選手になりたいのに、なんで親や宗教に禁止されなければいけないの?」
このように考える子供達は決して少なくはありません。ですが、エホバの教義に反したりすると排斥などを受け、家族や親族関係すらも崩壊する可能性があるという「脅し」のような規律の中で不幸な想いをしている子供達は多いのです。
先述して紹介したマンガはこうした教えに疑問を持ち、信者や教義、そして家族からも距離を置き、この世界で生きていこうとする二世の物語を描かれています。
ハルマゲドンはいつ来る?来ない?復活を信じ待ち続ける信者達

それにしても輸血を拒否し、学校で子供達は肩身の狭い生活をし、そこまでして教義を頑なに守る理由は何でしょう?その原点にあるとも言えるものが「ハルマゲドン」という世界の終末論です。
このハルマゲドンでは偽の宗教や人類の政治体制を全て滅ぼすと言われています。つまりエホバの信者だけがその終末を生き残り、そうでないものは滅ぼされるという考え方です。エホバの信者はそこで生き残り、亡くなった信者は復活し、永遠に生きるという思想なのです。
この世で我慢していることはハルマゲドンで生き残った後にすれば良いというのがエホバの教義なのです。
エホバの証人の矛盾だらけの教えと問題点。生活保護はサタンの世界のものでは?
と、ここまでエホバの証人で起きている真実と問題について話してきましたが、ここからは個人的にどうやってエホバの証人の信者と私たちは共存していくかを考えなければなりません。そして私自身の思うところを正直に話したいと思います。
まず前提として私は宗教の自由はあって良いと思うので、エホバの証人の考えを否定するつもりはありません。そして私もこれまでにエホバの信者と接する機会があるなかでエホバの人々は良い人が多く、とても穏やかで慎ましい人々だと思います。
それゆえに、社会との軋轢や、共存できずに不幸になる人が多いのはとても悲しいことだなと思います。だから私は共存するうえで、これは考える必要があるでしょ!って思う部分がいくつかあるので挙げていきます。
その教義は本当に正式な聖書の教えなのか?
まずそもそもエホバの証人は聖書研究をしていると言っても、聖書の教えを忠実に守っていると言えるのでしょうか?例えば「運命予定説」や「地獄」についてをラッセルはおかしいと感じ、独自の解釈をしています。
その他にも聖書におかしいと感じていることは独自の解釈をしてしまっているわけです。これは聖書に書いてあることをいくら研究しても忠実に守っているとはいえないのです。良いも悪いもそれが神の言葉なのですから。
ですが、結局はカトリックを始め多くのキリスト教においては、みんな現在は独自の解釈や、教えを変えてしまっているため、むしろ都合の良いように解釈すること自体は悪いことだとは思わないのです。
そもそもキリスト教自体は偶像崇拝禁止にも関わらず、ゲルマン人にキリスト教を広めたいがために、キリストの絵を描きまくりですからね。そして、利子をつけてお金を貸してはいけないというキリストの教えに反して、今や世界中銀行だらけです。
それと同じように結局はエホバの証人も都合良く解釈し、神の教えに反しているわけなのだから、時代に合わせて解釈を変えてしまえば良いということなのではないでしょうか?
例えば「血を避けなさい」という教えに対して、果たして信者の方々は肉や魚の血を一滴も体内に入れずに生きていくことは可能なのでしょうか?どんなに血抜きをしていても、肉や魚から血液成分を全て取り除くことは不可能です。
それにも関わらず頑なに拒否をしていますが、恐らく信者の多くは人生のどこかで血を体内に入れていると思われます。また、輸血に関しても血は食べてはならないとされていますが、輸血は血を食べることになるでしょうか?これもただ単に輸血=血を食べると同義と、上層部が定義したに過ぎません。
また聖書では「命は神からの賜物であり、人はその管理者にすぎない」という解釈から、自殺は神への不忠・罪だとキリスト教全般で解釈されていますが、助かる命を救わない、というのは果たして自殺とは違うのでしょうか?
エホバの証人の信者から見ればそれは殉教であり、また楽園で復活できるからという考えでしょうが、それを自殺と神に見なされたときに、果たしてそれは復活できるのか?と疑念を抱かずにはいられません。この辺はグレーゾーンと言えるところですが、グレーだからこそ守らなければならないのか?と考えてしまいます。
サタンの世界にお世話になってエホバに感謝するってどうなの?
一番疑問に思うのが、エホバの信者が忌み嫌う「サタン」だらけの世界にお世話になっているという現実です。この世の制度はもうすぐ終わるから、人生について長期的な将来設計は必要ないと考えがあり、年金や保険には入らず、貯金もせずに教義を広めるためにバイトをして老後に生活が苦しくなった結果、生活保護を受けている。
これっておかしくない?と思います。信仰していない我々はサタンとしてハルマゲドンによって滅ぼされる悪としながらも、私たちサタンの世界が汗水垂らして作り挙げた血税を使って生活している、要するに自分中心のご都合主義ではないかと思ってしまいます。
そもそもこの世がサタンだらけなら、どこかの島にでも移って自給自足すれば良いのです。自分の信じる世界や教えの模範を自分の力だけで作りあげていけば良いのです。しかし、それが出来ないからこの世界の秩序やルールに従っているわけですから。それを嫌っているにも関わらず、お世話になるというのはおかしな話とは思いませんか?
書籍の中でも大学進学を反対されて、大学を「サタン」と言った母親に経済的に苦しいということから資金援助したら、
「エホバの祝福だわ!」
と寄付をしてしまったという話がありました。
「違うよ。それは息子が大学を出て、苦労して就職して稼いだお金だよ。エホバは何もしてないよ」
と思わずツッコんでしまいました。
統治体の教えやラッセル自身の考えを信じ、思考停止している問題
エホバの証人は聖書研究という名目はありますが、聖書を研究していればラッセルと同じように聖書に疑問を持ったり現在のエホバの解釈に疑問を持つこともあると思います。しかし、それを意見したり、「この解釈おかしくない?」などと言うことは恐らく出来ないと思います。
結局は統治体の教えが全てであり、ものみの塔の指導に従わなくてはならず、解釈や疑問を持つことは排斥に遭うことになるのですから。しかしそれは、決して聖書を研究しているのではなく、統治体が解釈した聖書を研究しているのであって、真に神の教えに沿っているとは言えないのです。
このようにエホバの証人では自分たちの思考で考えることを止めてしまっていると言えます。統治体は先述した虐待事件や都合の悪いことを隠蔽して、都合の良い事だけを見せてきます。都合の悪いことに声を挙げようとすると排斥という脅迫を使います。
本当にその教義や組織が健全なら声を挙げたり疑問を持つことは何も悪いことではないのですが、それが出来ない現状の組織の在り方は、とてもクリーンとは言いがたいでしょう。
そういった事も踏まえて、本当にエホバの証人という教えは自分たちが命や現世を捨ててまで、信じるべきか、自分の心の声に耳を貸さなければいけないときなのかもしませんね。
エホバの人との付き合い方、訪問したときの対処法

エホバの証人の信者の方が友人にいるときにどのように付き合っていけば良いでしょうか?先述した通り、私の経験から言うと、エホバの証人の人は穏やかで慎ましい人が多く、人としては付き合いやすいです。そして勧誘などはほとんど無いため、良好な関係を築きやすいと言えるでしょう。
まず最初に言っておきたいのは、正面きっての相手の信仰を否定することです。エホバの信者は「外の世界はサタンの支配下にある」と考えていますが、だからと言って私たちや異宗教を攻撃してくることはありません。
サタンの世界にいる私たちに対しては「救うべき存在」と捉えていることも多いため、敵というよりかは友好的であると言えるでしょう。なのでこちらも一方的に敵対したり、攻撃したりする必要はありません。
基本的に相手の信仰を尊重し、行事や誕生日などに参加出来なくても責めないようにしましょう。基本的には普通に話して、仲良くすることは問題ありませんが、勧誘されたくないなら深入りは避けた方が良いかもしれません。
相手の信仰に興味を持つそぶりをしたり、救いを求めるような悩みを打ち明けるのは避けましょう。深い友情や恋愛関係は制限されやすいですが、職場の同僚、近所付き合いとしては良好な関係を保ちやすいです。誠実で優しいので、仲良くなれそうですが、相手の信仰を阻害しないように適度な距離感を保つのが良いです。
エホバの証人が訪問したときの対処法は?
では、エホバの信者の方が伝道活動、つまり訪問に来た場合の対処法はどうしたら良いでしょうか?
基本的には「興味がありません、今後の訪問はご遠慮ください!」と、キッパリと断るのがベストです。今まで訪問販売や勧誘についての対処は何度も書いているのですが、宗教の訪問に関してもこの姿勢は変わりません。
やってはいけないことは主にこんな感じです。
信仰に興味があるそぶりを見せる
よく言ってしまいがちなのは、「信じれるものがあって良いわね」、「熱心ですね」「立派ですね」などの言葉です。相手に気を遣ってつい言ってしまいがちですが、こういったポジティブな言葉は、相手に「興味あり」と判断されてしまいます。
エホバの証人の信者はリストを持っていると言われています。そこには、「関心あり」「拒否」などを記載されているとのことです。当然ながら「関心あり」と書かれたお宅には再訪問の可能性があります。
それを避けるためには、「興味が一切無いこと」、「もう来ないで欲しいこと」をハッキリと伝えることが必要です。そうすることで「拒否」リストに認定され、再訪問を避けられる可能性があるので、ハッキリと断りましょう。
曖昧な態度を取る。パンフレットを受け取ってしまうなど
次に避けたいのが、ハッキリと断らなかったり、パンフレットを受け取ってしまうことです。早く帰って欲しいから適当に聞き流してパンフレットを受け取ってという事をしてしまいがちですが、パンフレットを受け取ることも「関心あり」と判断される要因となってしまいます。
これも良くはないので、受け取らずにハッキリと断りましょう。
感情的に追い返す、議論するなど
あとの禁止事項としては、感情的に追い返すなどです。一見効果がありそうですが、反論や批判には一定の返しを心得ている場合が多いです。
当然ながら相手の批判に対する返しも勉強しているので、とにかく信者とは議論しないことが最善策です。興味が無いという意思をハッキリと伝えましょう。
輸血を既にしています、は拒否する口実になるか?
本当であれ、嘘であれ、「既に輸血をしているので、入信は出来ません」というのは拒否できるかということですが、どうやら、入信前であれば輸血した経歴があっても、問題は無いようです。
その真偽を確かめるために、信者二世の方に質問してみたところ、回答は以下でした。

つまり輸血しているから入信出来ない、という言い分は「輸血していても大丈夫」という口実を与えてしまうことになります。その点を踏まえると、敢えて輸血済みでも言わない方が無難の可能性が高いでしょう。
宗教勧誘お断りステッカーは効果があるか?
エホバの証人の訪問を防ぐ手として、「宗教勧誘お断りステッカー」は効果があるか?という事ですが、これは効果がある、ないの賛否両論だそうで、結局は地域、信者の性格に寄るのかもしれません。
しかし、玄関やポストに貼ることで、訪問者は再訪問を控えるように指導されているとも言われています。なので、迷ったら貼ってみるのも良いでしょう。
特に効果的なのは「宗教勧誘お断り」より「エホバの証人お断り」という具体的なステッカーのようです。訪問が多いというお宅なら、自作でもそのように書いてみると良いかもしれません。
まとめ
・エホバの証人は1800年代のアメリカでチャールズ・テイズ・ラッセルという人物が興した新興宗教。
・いつかハルマゲドンが起こり、エホバの信者以外の人間はいつか滅び、信仰を守った人が地上の楽園で蘇り、永遠に生きると信じている。
・しかし、教義を守るために輸血拒否により命を落とした人がいたり、組織内で性的虐待が数多く報告される、親により強制的に信者にされて苦しんだ信者二世問題など、あらゆる社会問題が起きている。
・組織内には数々の闇や教義の矛盾があるが、基本的に一般信者の方は性格や社会に問題が無い人が多い。
・基本的には適切な距離で最低限の注意を払って生活していれば問題はない。
・宗教勧誘の訪問があった場合は「興味が無いこと」「もう来ないで欲しいこと」をはっきりと伝える。
違う考えや信仰を持つ人と同じ世界に生きることは簡単ではありませんが、上手く折り合いをつけて適切な距離を見極めること、それがお互いが尊重し、尊重される世界なのかもしれませんね。
最後までお読みくださりありがとうございました。
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