
※本記事は小説「地球星人」のネタバレを含みます
※本記事はプロモーションを含みます
地球星人の感想(ネタバレを含む)
今回は前回に引き続き村田沙耶香さんの小説「地球星人」を読んでみました。
村田沙耶香さんの小説といえば前回考察した「コンビニ人間」がありますが、今回の「地球星人」は前作の衝撃をはるかに上回る作品となりました。というのも、この「地球星人」は完全なるタブー、つまり忌避すべきシーンが詰まっているからです。
・母親の子どもに対する虐待
・大人による性的暴力
・子ども同士の性行為
・解離的空想
・殺人
・人肉食(カニバリズム)
まさに残虐な犯罪と虐待とタブーのデパートというべきでしょうか。しかし村田沙耶香さんはあまりに多くのタブーを何食わぬ顔で登場させているため、善悪の判断以前の問題にそれをすんなり受け入れてしまう不思議な力があるのです。
言うなれば一流の寿司を握る対象が満面の笑みでシャリに昆虫を乗せて「へい!お待ち!!」と出してくる感覚です。普通昆虫を寿司として出すべきなのか、常識や善悪の判断はどうなのか以前に、一流の寿司職人が面々の笑みで自信満々で出されると昆虫の寿司すらも美味しそうに感じてしまう。
まさにこの小説は一流の作家が何の躊躇もなくこうしたタブーを当たり前のように目の前に出してくるので、私たちはそれを受け入れるしかないとすら感じます。そんな「地球星人」を全力で考察した結果、何が見えてくるのか、自分なりに解説してみたいと思います。
奈月についての考察
奈月は異常だったのか?家族は「まとも」だったのか?
奈月は大人達の虐待や理解されないことによって解離的空想などの防衛反応的な精神状態に陥っている可能性が大きいと感じます。
「コンビニ人間」の主人公は両親に愛情深く育てられていて教育上の問題は見られなかったにも関わらず相手の言葉の意図を理解できずTPOに合った行動が出来ませんでした。それ故にアスペルガー症候群なのでは?と思う読者も多かったようです。
一方の奈月は社会の考え方に馴染めない思考の持ち主であったとしても社会的に大きな問題や学習能力に問題があったとは思えないのです。
自分を魔法少女であると本気で信じたり、ポハピピンポボビア星人であると思い込んでいる部分はアスペルガー症候群などの障害なのでは?と思いがちですが、むしろそれは母親や姉の人格否定や暴力に対する健全な防衛反応なのではないかと思うのです。
身近な人の暴力や存在意義の否定から自分を守るために「自分は実は特別な存在」「本当の自分は別の世界に存在している」という心理になるのはよくあることのようです。
むしろ母親や姉は対照的にまともだったかと言われると、ヒステリーを起こしたりして学校や職場で疎まれていて、決して地球星人としての模範となっていたのかとは言いがたいですよね。
奈月はどちらかというと、社会を俯瞰的に見ることが出来る普通の少女だった。でも周りが彼女の正常な思考を壊したという部分では最終的にポハピピンポボビア星人は存在したのではなく、地球星人によって誕生したのだとも考えられます。
奈月の口はなぜ壊れ、人の肉を食べることで味を取り戻したのか
奈月は塾の講師である伊賀崎先生に口を使った性的暴力を受けました。その日から奈月の口は何の味もしなくなりました。
そして伊賀崎先生を殺害し、報復に来た両親を殺害し、その肉を食べたことで味を取り戻すことが出来ました。それは一体なぜなのでしょうか?
そもそも口は性的な行為をするために存在しているわけではありません。奈月にとってはなおさら。「なにがあってもいきのこる」ために話し、食べるための器官です。それを大人の一方的な欲望に使われたことで破壊されたのではないでしょうか?
伊賀崎先生の両親を食べるという行為は極限の状態の中で自分の意思で人間を食べる、それは「なにがあってもいきのこる」ためのポハピピンポボビア星人としての「捕食」だったからではないでしょうか?
「私の身体は全部、私のものになった」
この言葉のように、誰かのために存在していた身体が奈月自身のために殺して食べたことによって初めて取り戻せたのではないでしょうか?
「地球星人」らしい良心の行動から脱却した「ポハピピンポボビア星人」としての行為だったから。社会の部品になるためではなく本来自分のあるべき姿としての行為をしたことで自分の身体を取り戻したのかもしれません。
ピュートはどんな存在だったのか
小さい頃から否定や、この社会の常識に馴染めなかった奈月にとってピュートはいわゆる「イマジナリーフレンド」だったのかもしれません。
ピュート自体はもちろん喋ったり、何かしらの使命を与えたわけではないのでしょうが、イマジナリーフレンドとしてピュートから魔法少女という使命をもらい、魔法が使えると思い込むことで精神のバランスを取っていたのかもしれませんね。
ですが私たちにも分かるようにピュートが喋った場面が存在しました。それが伊賀崎先生を殺害するシーンです。奈月は伊賀崎先生の暴力によって、次は身体全体が壊され殺されるという事を本能で理解していたのでしょう。
殺したくなかった。でも殺すしかなかった。そんな極限の精神状態で奈月は壊れていた。そんな精神状態に反応するかのようにピュートは魔女を殺すという使命を語りかけました。それは奈月自身が最後は「なにがあってもいきのこる」ための防衛反応がピュートを介して反映されたのかもしれません。
衝撃のラストシーン。なぜお腹が膨れたのか?
ラストシーンで奈月と由宇と智臣が地球星人の救助隊に発見されたときに3人のお腹が異常に膨れていたシーンがありました。そして智臣が地球星人に言い放った言葉。
「僕たち、3人とも妊娠しているんです」
これは一体どういうことだったのでしょうか?
そもそも3人とも性交はしないと約束していたのですから、普通に考えて妊娠はあり得ませんし、男が妊娠するというのは現実的な話ではありません。3人は遮断された村の中で食べ物のない極限状態で長い間過ごしていたので栄養失調によりお腹が膨れたと考えるのが自然でしょう。
さらにはこの頃にはもう奈月達は人間を地球星人のオスなどと区別していて、完全に自分たちは地球とは別の生き物になっていると考えてています。客観的に見れば極度の栄養失調で精神状態も錯乱している、と見るのが普通なのですが、私にはそうとも言えないシーンがあります。
「あなたたちは・・・人間か・・・?」
救助隊の一人が放ったこの一言。確かに日本でボロボロの服を着た3人が栄養失調でお腹が膨れるというのは稀なのかもしれません。それにしたって人間かどうかを疑うというのはどういう状態なのでしょうか?
私は小説の中にはないもっと異様な彼らの姿があったのではないでしょうか?そしてそれこそがもう彼らは地球星人ではなく、精神の錯乱でもなく、ポハピピンポボビア星人になっているということの証明のように思えるんですよね。
ハッピーエンドのような演出

そして一番最後の締めくくりはこうでした。
「外に行こうか。僕たちの未来が待っている」
こうして3人は肩を寄せ合い光に照らされて外に出るというシーンで終わります。
殺人を犯し、その肉を食べ、全く普通の人間とは違う見た目に変わってしまった3人。そのうえこのラストの後はどうなるのか?地球星人達に捕まり裁判にかけられ、刑務所か精神病院に入れられるという現実的な未来しかないのでは?と考えられます。
ですがこのラストはまるでお坊様が悟りを開き解脱したような、そんな清々しさすら感じずにはいられません。
バッドエンドのようなハッピーエンドなのか、ハッピーエンドのようなバッドエンドなのか。前回の「コンビニ人間」でも、主人公のラストはハッピーエンドなのか、バッドエンドなのかの賛否両論が吹き荒れていました。

コンビニのアルバイトとしてしか生きられない不幸な主人公。でもコンビニのアルバイトとしてなら社会の一部として生きるところがある。絶望なのか、ある意味希望なのかは多くの人を悩ませました。
しかし、地球星人においては社会の一部になることは出来ない、そして人間の工場として子どもを産むことをしない、そんな3人が大罪を犯した上でのハッピーエンド演出なわけです。全く救済措置のない3人のハッピーエンドを私たちはどのように捉えるべきなのでしょうか?
「異常なのは世界か、私か」というコンセプトに立ち返る
「コンビニ人間」を大きく上回る衝撃で世に出された小説、「地球星人」。ですが村田沙耶香さんの伝えたい事は一貫してここだと思っています。
「異常なのは世界か、私か」
この世界には多くの人が作りあげて当たり前になっている異常な考えがたくさんあるわけです。それは社会という大きなものから、会社や学校という小さなものまで様々です。
例えば会社なら
「会社のために体調不良でも会社に来るべきだ!家族を犠牲にしてでも出社するべきだ!」
「社員は守られる存在であり、派遣やバイトは切られても仕方が無い存在」
今の時代でも暗黙の了解でこのように考える会社や組織というのは当たり前に存在します。ですが、私たちって何のためにその会社に存在しているんでしたっけ?
ひとえにその会社に利益をもたらせるかどうか、そこに尽きるのではないでしょうか?にも関わらず利益も生まず害しか及ばさない社員が社員というだけで残され、利益を生んでも派遣やバイトというだけで切られてしまう。当然そんな企業に反論しても叩かれるだけですが、本質的には何も間違っていません。
そして本作に登場する「性」に関することも然りです。
「なぜ結婚しないこと、子どもを産まないことを他人が過剰に気にする必要があるのか?」
「なぜ彼氏や彼女がいなくても幸せに生きている人たちに異性を紹介し、交わらせたがるのか?」
今ではDINKS(結婚しても子どもを産まない夫婦)や未婚の人も多く増えていますが、そういう人たちに対して下世話な批判が多いことも事実です。そんな事をしてる暇があるなら自分の子育てや日常に時間を割けば良いんですよ。なぜ他人の事を気にする必要があるのか・・。
と、こんな風に異常な常識がこの社会に溢れていることは紛れもない事実です。
ポハピピンポボビア星人はもうこの世界には存在している

村田沙耶香さんの作品では
「地球星人か、ポハピピンポボビア星人か」
「俺か、俺以外か」
みたいな両極端な世界が広がっていますが、私の考えでは私たちの中にはきっと地球星人とポハピピンポボビア星人が混ざり合って生きているのだと思います。社会の常識や価値観にある程度を従って、でも自分のために、自分の幸福のために生きたいと思う考えの両方に区切りをつけながら生きているのではないでしょうか?
もちろんその2つの比率は人によって違うと思うけれど、場合によってはその2つの割合が崩れてしまって上手く生きられない人、区切りをつけられない人というのが存在するということは私たちは忘れてはならないと思うのです。
そういう人たちに無理に社会の常識や価値観を押し付けてもお互いが苦しいだけです。そうして居場所を失った人たちがきっとポハピピンポボビア星人になっていくのだと思います。
地球星人のラストでもこんな事を言っていました。
「僕たちは明日もっと増える。明後日は、それよりももっと増える。」
そう考えるとポハピピンポボビア星人の増殖というのは決して机上の空論ではないということです。多様性を謳いながらも社会の圧力は増し、それが強まるほどに人々のポハピピンポボビア星人の部分は増えていく。そうして奈月達のような宇宙人的な人たちも出てくるのかもしれません。
そこまでは行かないけれど、社会の圧力に反するように結婚しない人、子どもを産まない人、フリーターの人たちは増えていき、そこに対する偏見は今後もなくならないでしょう。これからもポハピピンポボビア星人は増えていき、地球星人との分断は増えていくのかもしれません。
「そんな生き方も良いよね」
「そんな考え方も良いよね」
そう思えることが、過度な地球星人を増やすこともなく、極端なポハピピンポボビア星人を増やすこともなく、腸内環境を整えるように、健全な他人と自分の2つの宇宙人を共存させる手段なのかもしれませんね。
最後までお読みくださりありがとうございました。








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