母親を殺害し遺体を切断。滋賀医科大学生母親殺害事件。娘の苦しみと母親の狂気。親として今考えるべき事

目次

教育虐待という新たな闇

現在は少子高齢化という社会に関わらず、児童虐待の件数は年々増加しているようです。

出典:児童相談所における虐待相談対応件数とその推移

身体的虐待、心理的虐待、性的虐待、ネグレスト(養育の放棄)。様々な虐待が現在まで続き、子供達の未来を閉ざしています。

そして近年、教育虐待という新たな虐待を耳にします。

親が子供の心や体の耐えられる限界を超えて勉強を強要し、期待した通りの結果が出ないときに激しく叱責したりする、子供を精神的に追い詰め、時には身体的暴力も振るうなどの行為を繰り返す虐待。

そして、ある事件をきっかけに、この教育虐待が大きくクローズアップされることになりました。

滋賀医科大学生母親殺害事件。2018年に母親から教育虐待を受け、追い詰められた娘が母親を殺害し、遺体を切断して遺棄した事件。

後に逮捕された娘は母親から受けた壮絶な教育虐待を告白。そして、娘が受けた教育虐待の内容を赤裸々に描いた本が出版されました。

「母という呪縛、娘という牢獄」

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私は今回この書籍を読み、改めて教育虐待を受けた娘の苦しみ、そして行き過ぎた教育を強いる母親の狂気。新たに問題になった教育虐待の残酷な事実を知り、虐待というものについて改めて考えることになりました。

今回はこの本を参考に何が起きたのか、そして親として我々は何を考えなければいけないのか、紐解いてみましょう。

滋賀医科大学生母親殺害事件の真相

事件発覚

2018年3月。滋賀県の守口市の野洲川の河川敷で、とある遺体が発見される。その遺体は人の体幹部(手足、頸が切断された遺体)のようで、死後数ヶ月が経過したものと見られ、腐敗が進み、一部が白骨化していた。

警察の聞き込みと司法解剖の結果、遺体発見現場から数分の場所に住んでいる高崎妙子(仮名)と判断した。妙子は娘と2人で暮らしており、娘の聞き取りから不自然な点が多く、捜査の手は娘に絞られる。

そして状況証拠から娘の高崎あかり(仮名)が死体損壊の容疑で逮捕され、後に殺人容疑で逮捕、起訴された。

モンスターを倒した。これで一安心だ。

あかりは最初は殺人について否認していたが、後に母親の殺害を供述。あかりは母親のマッサージをし、眠りについた頃を見計らい、包丁で母親の首を複数回刺して殺害。

その後ツイッターで「モンスターを倒した。これで一安心だ。」というツイートを残し、後日母親の遺体を解体し、切断した頸と手足は燃えるゴミとして焼却し、体幹部を河川敷に遺棄した。

その後は父や友人に偽造のラインを送るなどして、母親が生存していることを偽装しながら、自身は看護師として働いていた。

実の母親を手に掛けた恐怖や後悔よりも、「モンスターを倒した。これで一安心だ。」という安堵と昂揚にも似たツイートが、自分が疑われる証拠にもなる可能性もあるとすら考えられないほどの安心感を彼女に与えたものは一体何だったのだろうか?

異常なまでの学歴信仰

母の妙子は異常なまでの学歴信仰があった。

あかりの記憶の中では母は公立の中学生を見ると、「みっともない!」と卑下した目で言い放ったり、あかりの父親に対しても、「勉強しないと名前さえ書けば受かるような大学にしか入れないからねー」などと口にしていた。

後にあかりが高校生となった後も、工業高校の男子とデートへ行ったことを激しく叱責した。男子とデートした事を怒っているのではなく、工業高校の男子なんかとデートしたことに憤慨したのだという。さらに工業高校ごときがあかりを振ったのが許せないらしく、あかりを装いメールをして、謝罪させたこともあったという。

なぜここまで学歴に執着するのか、何が妙子をそのように突き動かしたのかは書籍には書かれていない。しかし狂気とも言える妙子の学歴信仰は当然あかりに向くことになる。

あかりは小学生の頃にマンガ、ブラックジャックを読み外科医になることに強く憧れるようになる。卒業文集でも自分が頭に刻み込んだ手術シーンを描いている。

しかし、いつしか母親は成績優秀で、外科医という学歴の中でもトップにふさわしいあかりの夢を、いつしか自分の異常な学歴信仰に組み込んでいく。

熱湯を太腿にかけ、「勉強中にうっかり飲み物をこぼしたって言いなさい」

妙子は「みっともない」と言っていた公立の中学への進学を徹底して嫌がり、進学校のカトリックの私立中学に入学する。

しかし、小学生の頃は成績優秀だったあかりも、難しくなっていく中学の授業に成績は伸び悩み、テストの結果も思わしくないものになっていった。

それに伴い妙子の態度も一気に豹変していく。詰問、罵倒、命令、蒸し返し、脅迫、否定、成績が悪くなるたびに言葉の暴力は日をまして激化していく。

「どうしてちゃんとできないの?なんでこんな事も出来ないの?」
「バカ、デブ」
「あんたなんか産まなきゃよかった」
「死ねば良いのに」

まさに枚挙に挙げれば暇がないが、母親とは思えないほどの耐え難い暴言が本の中にばらまかれている。

あかりも母親の軋轢に耐えかねて、ついに成績表を改竄するなどの偽造を始めてしまうが、それが見破られ、余計に母の怒りを買うことになる。

中学二年の時、灯油ストーブにあった熱湯をコップに入れ、正座するあかりの太腿にぶちまけたこともあった。

痛みと激痛で泣き叫ぶあかりに言った言葉は

「今度は挽回しなさいよ・・病院に連れて行ってあげるから、勉強中にうっかり飲み物をこぼしたって言いなさい」

届かない世界

あかりが小学生の頃に目指した医者という夢は妙子に憑依し、まるであかりが医者になれなければ娘でもなければ人間ではないとでも言うほどに異常に執着していた。

しかしあかり自身は中学時代から難しくなっていく勉強に加え、度重なる母親の教育虐待が尾を引き、数学への苦手意識を持っていた。物理も化学も不得意で、あかりの中学の成績は「中の上」程度に留まっていた。医学部という超難関の道へは学力的にも、気持ち的にも、もはや届かない世界になっていた。

妙子はあかりに滋賀医科大学の医学科を受験するように強いた。偏差値は68というあかりにとっては途方もない偏差値だった。あかりの偏差値は58だった。その10の差の分だけ妙子から鉄パイプで殴られるという罰を受けた。

いくら逃げても、お母さんはどこまでも追いかける。絶対に逃がさない。合格するまでずっと

あかりはそんな生活に嫌気が差して、なんども家出を試みた。しかし、母親は私立探偵を使ってまであかりの居場所を突き止め、その度に連れ戻した。

時にはあかりが密かに就職をし、寮へ入って妙子から逃げようとしたが、妙子自身が内定を断ったという。

その時に妙子はあかりにこう言った。

「いくら逃げても、お母さんはどこまでも追いかける。絶対に逃がさない。合格するまでずっと」

9浪の末の、地獄からの解放

そんな必死の逃亡も、初めての大学受験も失敗に終わり、母の呪縛から逃れることは出来なかった。

その後も牢獄のような生活で教育虐待をされる日々が続き、あかりはそれから9回も浪人する。最終的に母が目指した滋賀医科大学に合格するが、合格したのはあくまで看護学科だった。

妙子は「看護学科ごときのために、学費を払う必要はない」というほど、あくまであかりを医師にすることに執着していたが、助産師になることを条件に、看護学科に入ることを認めた。

そこからの2年間は、妙子の教育虐待も陰を潜め、普通の母娘のように旅行をしたり、遊びに出掛けるなど、それまでの事が嘘のようになっていった。

あかり自身も看護学科に入って明確な目標を持ち始めた。手術看護師という夢だった。ブラックジャックに憧れて医師を目指したあかりだったが、結局ブラックジャックにはなれなくても、優秀な助手であるピノコにはなれるかもしれない、と身の丈に合った形での夢を切望し始めた。

再び地獄へ

そんな普通の母娘になり、大学でも明確な目標が出来たあかりに再び地獄が訪れる。

母はあくまで助産師になることを条件に看護学科に入学させた。しかし2年生の終わり、助産師課程選抜試験に不合格だった。

「またお母さんとの約束を破りやがって!嘘つき!馬鹿!死ね!」
「助産師になることが条件で大学に入れてやったのだから、助産師になれないんなら大学なんて辞めてしまえ!」
「ただの看護師にしかなれんクズと嬉しがって出歩いていた自分が恥ずかしいわ」

妙子にとって安らぎの時間は「助産師になる約束を果たす」あかりであって、そうではないあかりは娘ではない、ただのクズだったのだろう。

この時あかりは大学付属病院の看護師として内定をもらっていたが、妙子は内定を辞退し、学校を退学し、助産師学校に入るように強要した。

母のいない人生を送る

医師にもなれず、助産師学校に入ることもできないあかりに、妙子の態度や暴言はさらに常軌を逸したものとなる。

そしてあかりの限界を超える最後の決定的な瞬間が訪れる。

あかりが母娘の連絡用以外のスマホをもう1台隠し持っていたことが発見し、激しい叱責を受ける。

妙子はスマホを勢いよくコンクリートブロックに打ちつけ、そこで土下座するように命じられる。深夜の3時。庭で部屋着で靴下のまま、土下座するあかり。その様子を妙子はスマホで撮影した。

粉々になったスマホのガラスと共に、自分の心も完全に打ち砕かれたと感じていた。そしてあかりの我慢は限界に達し、「母のいない人生を送る」と決意する。

完全に追い詰められたあかりは、殺害することしか、母から解放されるしかないと考えていた。そして母親の首筋に包丁を突きつける結果になった。

家族だから

逮捕された当時、あかりは死体損壊については認めるも、殺人容疑については頑なに否認した。

母はあくまで助産師学校を不合格になったことで、嫌になり、唐突に首に包丁をあて、自殺した。そのようなシナリオを描いていた。

しかし警察は、状況証拠や、あかりの証言に不自然な点が多いことから、自殺はないと考え、あくまで殺人容疑で起訴したいと考えていた。

しかし、ずっと母という牢獄で過ごし、母に嘘をついて生きるしかなかったあかりにとって、拘留生活はそこまで苦ではなかったのかもしれない。

結局あかりの自白を引き出せないまま、死体遺棄、死体損壊の罪で起訴され、あかりは大津地裁の一審で懲役15年を言い渡される。

ところがあかりは控訴審では一転、殺害を認めた。理由は2つ。父の言葉と一審での裁判長の説諭だった。

父が面会に来たとき、あかりはずっと疑問に思っていた質問をぶつけてみた。

「なんでお父さんは、私をずっと支えてくれるの?」

父は答えた。

「家族だから」

母親にとっては助産師になれない自分は娘でなければ家族でもなかった。しかし、父にとっては殺人を犯しても自分の家族だった。

そして一審での裁判長での言葉があかりを変えたという。

「あなたは今までお母さんに敷かれたレールを歩まされたけれども、これからは真摯に罪と向き合って、罪を償い終えた後は、あなた自身の人生を歩んでください」

他人であっても、嘘をついていても、母との苦しみを理解してくれる人はいないと思っていた。と話していた。

あかりは控訴審で懲役10年の減刑という異例の判決となった。

二度目の牢獄

2021年2月、あかりは刑務所へ移送された。

あかりにとってはある意味では二度目の牢獄という生活と言えるのかもしれない。入浴時間が短いこと、食事の量が少なく味が薄いことなどは、9年続いた浪人生活とよく似ているという。

あかりは刑務作業で「仕事ぶりが丁寧で、仕上がりがきれいだ」と褒められることもあった。

しかし、母親に一度も褒められることがなかったあかりにとって、褒められることには慣れていなかった。徐々にあかりは褒められることに警戒しなくても良いと感じ始める。

いずれ出所したら、協会にも通ってみたいし、刑期を終えたら、世話になった父や、弁護士の先生、国語の先生にもお礼を言いたいと話していた。

あかりにとっては長い長い人生の牢獄なのかもしれない。ただ個人的に思うのは、あかりが罪を償い、本当に自分が選んだ人生を幸せに過ごして欲しいと思っている。

親として知るべき3つの事実

私が今回この書籍を読み、親として、教育を考える立場にあるものとして、今全ての親に改めて考えて欲しいことが3つあります。

  • 愛は絶対的なものではなく、歪むことがある
  • 親子の絆というのは、簡単に引き剥がせない関係にある。
  • 子供は常に親に愛されたい。認められたい

愛は絶対的なものではなく、歪むことがある

子供に対して愛情を抱く。それは親にとってあまりにも自然な愛おしい感情だと思います。そして親は子供に多かれ少なかれ子供に理想や期待を抱きます。

それは子供の幸せや将来を思うからこそ生まれるもので、それも当然の感情です。ただ、愛おしいと思う気持ち、愛という感情は時には歪み、自分のエゴにすら、すり替えられることもあります。

個人的な感想では、母である妙子にはあかりに対する愛情を微塵も感じませんでした。ただ自分の学歴信仰の正当性をあかりに押しつけただけの毒親だと感じています。

そうでなければあれほどの暴力、暴言が出るものなのかと。

事実は分かりませんが、それでも妙子には妙子なりに、医師になれば、助産師になれば、娘が幸せになるという彼女なりの愛情があったのかもしれません。

しかし、愛情があったにしても今回のような教育虐待が起きていたことには変わりはないと思います。

「愛があれば・・」
「この子を思っているからこそ!」

暴力や虐待はこういう言葉でかき消されることもしばしばあります。いわゆる愛のムチというやつなのかもしれませんが、そのようなものは1ミリも理解できないし、理解されるべきではありません。暴力は暴力であり、暴言は暴言なのです。

愛のムチというのは打たれてる方も辛いが、打っている方も辛い、涙ながらにあなたのため思っている。この双方辛いんだという感情が狂った愛を助長してしまうことがあります。愛しているから何をやっても良いという感覚を起こしていまいます。

現実に妙子も実はあかりが助産師になってくれない、医者になってくれない、という約束を守られなかったことで自殺未遂をしたという話もあります。

当時母(あかりにとっては祖母)に医者になるから、という名目で多額の学費を援助してもらい、今更医者になれませんでした、ととても言えない、と時には合格したと嘘までついて引き返せないところまで来ていた負い目があったのかもしれません。

母には母の苦しみがあり、理解されない。それが一層妙子の暴走を加速させる要因だったのかもしれません。

そして歴史的な言葉でこの教訓を学ぶなら

朝廷に攻め入るという形は足利尊氏であっても、心が楠木正成であるならばよいではないか。

この言葉に尽きます。

これは当時幕府や朝廷に敵視されていた長州藩が天皇を誘拐して山口で天皇を立てて攘夷を決行するというかなりヤバい考えで、それが実際に行われたのが蛤御門という大事件です。

長州藩の人間もさすがにこの計画のヤバさに実行を躊躇っていました。しかし真木和泉という藩士のこの言葉に絶対にあってはならないこの計画を実行し、失敗しています。

足利尊氏は帝に何度も弓引いた大悪党。楠木正成は何度も帝を守った正義の人。そんな認識がなされていたのですが、この言葉の真意は

やっていることがマジでヤバいが、心が忠義で溢れていれば何をしても良い

ということから、この言葉のヤバさが窺えると思います。

愛、忠義、正義、美しい言葉で彩られた言葉はたくさんあり、それに従い行動するのが人間です。しかしその言葉と裏腹に行動が人を深く傷つけ、追い詰め、不幸へ追いやっていくものならその言葉に何の意味もありません。

私たちは親として、人として、言葉にふさわしいだけの行動が出来ているか、常に客観的に見て子供と接していかなければならないのです。

親子の絆というのは、簡単に引き剥がせない関係にある

私たちが思っている以上に、法律的にも血縁的にも親子という関係は強力です。そして一生切れない最たる絆でもあるのです。

今回の事件のように、あかりがどこへ逃げようとも、警察や探偵を使われると最終的には親のところへ連れ戻されます。未成年なら尚更簡単に親から離れることも出来ないし、本気を出されれば、まだ日本の制度ではどんな状況でも完全に親子を引き離せないのが現実です。

そしてどんな状況においても親というのはどこまでも付いてきます。戸籍、遺伝、習性、例え縁を切ろうが親に与えられた愛情も、傷も、生涯を掛けてもその記憶から消すことは出来ないのです。

この事件は決して親子感の問題だけでなく、現状大人達が完全に子供のSOSをに応えきれない日本の闇を象徴する事件なのだと私は思います。

そして親と子という関係はどうしても上下関係になってしまいます。もちろん親子関係に限らず対になる関係にはどうしても上下関係が出来上がります。

上司と部下、先生と生徒、先輩と後輩など。

でもこれらも含め全ての関係は上下関係ではなく、対等な関係であるべきです。同じ人間として敬意を持ち接していく関係だと思っています。

そして私自身も親と子という関係は対等であり、親は支配する立場ではなく、子供の成長を支えるサポーターとして存在するべきだとずっと言い続けています。

しかし、子供は知らない、そして出来ない事も多く、大人の都合通りにいかないことも多く、ついコントロールする立場になってしまいがちです。

しかし親と子において、支配する立場になるというのは危険な事なのです。それは警察と市民の関係に似ています。

警察は市民を逮捕、拘束する権限を持ちます。もちろん十分な証拠や根拠がなければそこまで至ることは出来ませんが、無実の人間を逮捕、取り調べたという事例はいくらでもあります。

仮に無罪で釈放されても、逮捕されたという周りの噂、職場や家族間での影響は少なからずあります。だからこそ、警察はその権限に対して慎重で責任ある仕事が求められるのです。

親子関係に対しても同じです。親はちょっとした言葉や行動次第で、子供の人生を良くすることも出来れば、壊すことだって出来るのです。だからこそ、親は1人の人間の人生を預かっているのだという責任を持たなくてはなりません。

親になるのに特別な資格はありません。しかし親になるのはそれくらい覚悟が必要なことなのでもあると、親になり、この事件を目にして言えます。

子供は常に親に愛されたい。認められたい

最後に知って欲しいのは、親は子供にとって最も愛されたくて、認めてほしい存在なのです。

子供にとって親は最後の拠り所であり、安心できる場所なのです。だからこそ虐待をどんなに受けても認めてもらいたくて、親の喜ぶことをしようとして、その場に留まり、そのまま虐待死してしまう子供も少なくありません。

愛が欲しくて、親に認めてもらいたいと必死に願い、親に殺されていく。そんな悲しい話があるでしょうか。

あかりも親として掛けられたかった言葉も、愛情ももらえず、否定され罵倒され、それでも母との普通の母娘としての時間を求め、仮にそれが偽物だったとしても、そんな時間があったことにホッとしている瞬間もあったはずです。

そして、父が家族だから支える、という無償の愛が自供をする引き金になり、他人であっても裁判長の説諭をきっかけに誰にも分かってもらえないと思っていた今までの苦労を理解され、認めてもらったと話しています。

あなたの子供は良い子だから価値があるのでしょうか?親の言うことを聞くから価値があるのでしょうか?

違いますよね。あなたのもとに生まれてきただけで素晴らしい、唯一無二の存在なはずです。子供を認め、ただ無償の愛を与えてあげる。どんな人生を歩んでもただ傍で見守ってあげる、親ってそれだけで良いんです。

妙子のように、学歴がなければ価値がないなどと悩むことも、強要することも必要ない。あかりのように親に嘘をつくことも、親の描いた道を強要されることもしなくていい。

ただ傍で笑っていてあげる。親の役目ってそれだけで良いんです。

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どうしたらこの事件を防ぐことが出来たのか?

最後にどうしたらこの事件を防ぐことが出来たのか、私たちは考えなければいけません。

ここに明確な答えはありません。しかし大人達が考えなければ、増え続ける虐待の芽を摘むことは出来ないのです。

私はもしこのような場面に遭遇したら、絶対に親に引き渡したり、帰宅を促したりすることはもはやしてはいけないと考えています。

警察を呼ぼうが、児童相談所に電話しようが、弁護士を呼ぼうが、とにかく第三者や第三機関に問題を投げかけて子供を親から引き離し、問題を大きくしていくことが最善の方法だと考えています。

ここで問題になるのが子供の気持ちです。子供はもし連れ戻された場合、また酷い暴力や逃げたことで激しく叱責される可能性もあり非常に危険です。さらに事を大きくされることでもっと酷い目にあう事も想定されるなどして、警察や第三者に通報される事を嫌う可能性があります。

あかりも家出して突然国語の教師の家に押しかけるシーンがあります。しかし教師が学校や警察に通報するよう促すと、警察にも学校にも言わないで欲しいと言われたため、通報を見送った場面があります。

しかし、ここでもし学校や警察に通報し、問題を外側に投げていれば、あかりは救われる可能性もあったのかもしれません。もちろん、大人達にはそれぞれ事情や自分たちの問題もあるので、問題を大きくしてそこに関わることを避けたいと思うかもしれません。でもそれではダメなのです。

さらに、当人に通報しないでと言われると、どうしても本人の意思を酌んでしまいがちなのですが、暴力を受けている子供がいる以上、本人の意思ではなく事実で大人達は判断しなくてはいけないのです。特に未成年を保護している以上、子供ではなく、大人の判断で第三者機関で子供を保護するという判断をするべきです。

余談ですが、警察に通報しておく、というのは当人だけでなく、大人自身を守る方法にもなります。場合によっては誘拐と疑われる可能性や、自分が危害を加えられる可能性を防ぐことが出来ます。

もし連れ戻されたり、親に誘拐だと主張された場合そのような疑いを視野に捜査される可能性もあるので先手を打って先に事情を説明すべきです。

以上が私の持論なのですが、先述したとおり明確な答えはありません。1人1人の大人達が考え、議論し、声を挙げることで虐待という深刻な問題を解決していかなければならないのです。

親として

この書籍を読むととても複雑な気持ちになります。凄惨な事件を起こした加害者が虐待という大きな被害者であり、その虐待によって人生のほとんどを苦しんだ加害者を親としてはいたたまれない気持ちになりました。

被害者である狂った母親もまた、何かしらの診療や治療、第三者の力を借りて救わなければいけない存在だったのかもしれません。

そしてこの実際に起きた事件を読み、自分が父親だったら、国語の教師だったら、どこで母親を止めて、あかりを救うべきだったのか、常に考えてしまいます。

今日もどこかで虐待が行われ、どんな人にも虐待という小さな芽は存在します。だからこそ、それに気付き、止める力、守る力を改めて見直し、子供という存在を守っていかなければなりません。

私が最後に言えるのは、改めて加害者である娘が自分の罪に真摯に向き合い、罪を償いながらも刑期を終えて、誰かのものではない自分自身の人生を幸せに送って欲しい。そう思うばかりです。

最後まで読んでいただきありがとうございました。

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