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明治時代の日本を愛したフランス人
2025年現在、朝ドラで「ばけばけ」が放送されていますね。「ばけばけ」のモデルとなったラフカディオ・ハーンは小泉八雲という日本名でも有名で、「日本人より日本好き」な外国人として有名です。
今回は同じように明治の時代にあり、日本に魅せられた外国人「ジョルジュビゴー」と、彼の描いた風刺画を見ていこうと思います。とは言え、ビゴーは日本では風刺画を描いて日本人を揶揄していたようです。ビゴーは日本が好きなのか、嫌いなのか?を見ていこうと思います。
ビゴーは何しに日本へ?

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ビゴーは1860年にパリで生まれました。母も画家で画に興味があったようで、5歳で既に天才的な画を描いたと言われています。12歳の時に有名な美術学校に通うも、貧しさのために中退。挿絵の仕事をするようになります。
19歳の頃にはエミール・ゾラの「ナナ」の挿絵を描いて有名になりました。フランスで若年ながら既に天才画家としての才能があったことが分かります。
ジャポニズムに影響され日本へ
この頃のフランスでは日本の美術がブームとなり「ジャポニズム」と呼ばれ多くの画家の影響を受けていました。ゴッホやモネなど、多くの有名が画家がこのジャポニズムに魅せられています。

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そしてビゴーもまたジャポニズムに魅せられ、日本に行く決意を固めます。
親日家のビゴーが日本人を猿に見立てた理由。鹿鳴館の画から滲み出る日本への失望

なぜビゴーは日本人をバカにしたような風刺画を出したのか?それは日本の西洋化に失望したからです。ビゴーはそもそも日本の浮世絵や美術に魅せられて日本にやってきました。しかしながらいざ日本に来てみると、日本は西洋文化を取り入れることに必死になっていました。
日本は黒船来航以来、アメリカやヨーロッパと不平等条約を結ばされていました。日本にいながら日本の法律で裁けない治外法権、自分たちで関税を決められない関税自主権の喪失。
「そういった不平等条約を撤廃するためにも、西洋からの文化を取り入れ、近代化を進めなければならん!」
そう考えた日本政府は積極的に近代化を推し進めます。
しかし、古き良き浮世絵に描かれた日本、そこに憧れたビゴーにとっては日本の良さを捨てて必死に自分の国の文化の猿まねをするのが許せなかったのでしょう。特に井上馨が西洋との社交場として創設した鹿鳴館での出来事はその象徴として描かれています。

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この風刺画は、鹿鳴館に出入りする女性を描いた「月曜日の鹿鳴館」と題した画なのですが、床に座り込んだり、タバコの灰を床に落とすなど、かなり下品で淑女とはほど遠い様子が描かれています。当時まだ西洋のダンスを踊れる女性が少なかったため、芸妓を急遽仕立てて舞踏会を開いていました。

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さらにこちらは教科書でも有名な「社交界に出入りする紳士淑女」という画ですが、スーツやドレスを着た男女が鏡では猿になっています。さらに「月曜日の鹿鳴館」、「社交界に出入りする紳士淑女」の上端の両方に「名磨行」という単語があるのが分かります。これは生意気(なまいき)の当て字で日本人を皮肉っているようです。
庶民の文化に残る日本の良さに魅せられるビゴー

もともとは浮世絵版画の制作に興味を持っていたビゴーですが、ビゴーの興味は古き名残を残す庶民の暮らしにスポットを当て始めました。先ほどのように西欧文化を必死で真似する国の政策を揶揄する一方で、庶民の暮らしはより写実的に書きました。特にフランスとは全く異なる日本独自の文化を不思議に感じたようです。
例えばとにかくペコペコと頭を下げて挨拶するというのは新鮮だったようで、そういった日常の挨拶も画にしています。また、日本人は海水浴や芝居小屋で大衆の前で裸になるのも平気で、そういったことを画にもしています。もともと江戸には混浴文化もあったことですし、大衆で裸になるということはその名残だったのでしょうか?
しかしながら面白いことに、西洋絵画の裸婦像の鑑賞は、見るのを恥ずかしがっていたようです。

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このように日本独自の文化や矛盾を中立的な立場でビゴーは描き続けました。しかしながら、満員電車の画を描かれていても日常的な画としか思わないように、当時の日本人にとっては当たり前の光景としか移らなかったでしょう。
しかし、こういった時代の庶民の暮らしを忘れた私たちにとっても、ありのままの当時の庶民の暮らしを知る貴重な資料となっているのです。
魚釣り遊びで日清戦争の未来予想をしたビゴー

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日本の西洋化、そして庶民の暮らしを描く一方で、日本の国際情勢を描いたことが最も有名でしょう。上記の画は教科書でも目にしたことがあるかもしれません、「魚釣り遊び」という名で描かれ、朝鮮半島を巡って日本と中国が争っているのを、ロシアが漁夫の利を狙っているという図です。
この7年後に日清戦争が勃発し、朝鮮半島を獲得し疲弊している方をロシアが戦い奪ってしまおう、という三国の様子を描いています。実際に日清戦争が起こり、そして朝鮮の権益を巡って日露戦争が実際に起こりました。ビゴー自身も日清戦争の特派員として従軍し、戦争中の様子を描いたり、写真を数枚撮るなどの活動をしました。
不平等条約に守られるビゴー
こうして日本でたくさんの風刺画や日常生活の画を描き続けたビゴーですが、彼がこのような制作活動が出来た裏には実は不平等条約があったのです。というのも、当時日本は西欧諸国に追いつこうと必死に西洋化を推進していたわけです。その理由は当然治外法権を撤廃して、関税自主権を取り戻すということにあります。
欧米列強に並ぶ軍事力と気品を身につけてこのような不平等条約を突きつけられない国になる必要がありました。そのためには、「日本の西洋化が進んでいるぞ!」というアピールをする必要がありました。なので日本はこの時代、西洋化を表現した美術が高く評価されました。
逆に言うとまだ「日本は遅れてるぞ!」とアピールするようなビゴーの存在は日本政府にとって目の敵であったわけです。しかしながら不平等条約があり、フランスの優位性に守られているビゴーに日本政府はおいそれと手を出せないわけです。
しかしながら、ご存じの通り日本は列強との不平等条約を撤廃することに成功します。身の危険を感じたビゴーはフランスに帰国し、二度と帰ることはありませんでした。
ビゴーは親日か?反日か?

結論から言うとビゴーは親日です。正式に言うと、古き良き庶民や文化に関しては親日であり、西洋列強を真似する政府には反日だったと言えるでしょう。
その証拠の1つとして、ビゴーは外国人の居留区ではなく、日本人の多く住む地区に住んでいます。もちろん庶民の様子を近くで見る目的もあったでしょうが、別に外国人居留区から毎日通っても良さそうな気がします。あえてそうしなかったのは、古き良きが残る日本により近い場所にいたいというビゴーの願いだったのかもしれません。
もう1つは日本人女性の佐野マスとの結婚。これを見ても分かるとおり日本人が嫌いなら日本人女性とわざわざ結婚したりしません。佐野マスとの間に長男、ガストンモーリスをもうけます。しかしながら、先ほどの不平等条約改正に伴い身の危険を感じるとマスと離婚し長男を連れてフランスへ帰ります。
マスとは確執があったとも、マスの家族に反対されて離縁されたとも言われています。しかし、ビゴーはフランスに帰った後も日本の記憶を基に日本の画を描き続けます。一方でフランス人の女性と再婚し、2人の女子が誕生しています。
日常生活では日本風の庭園を作り、日本風の着物を着て「日本人」と呼ばれることもあったとか。そしてフランスにて脳卒中で亡くなります。享年67歳。
ビゴーの評価
ビゴーはラフカディオ・ハーンとは多少異なり、表立って日本を好き、と文章や言葉で表現した資料が少ないことから、ある意味では反日とも親日ともとれる人物でしょう。しかしながら日本に対する興味や関心は強かったし、日本に強く溶け込んだのも制作活動だけが目的ではなく不思議な文化に魅せられたからでしょう。
そして彼の描いたあまりにも日常的すぎる画は今の日本人に当時の生活や在り方を教える貴重な資料となりました。そして国を敵に回してまで描いた風刺画は、当時の国の情勢を的確に示し、統制や規制が強まる日本の中で唯一真実や他者目線を語るものになりました。
ビゴーの作品は当時の様子を忘れた現代人の私たちにこそその価値を示すものではないでしょうか?歴史的には不平等条約改正をし、日本は強い国になりました。さらに不平等条約改正、日清戦争、日露戦争を勝ち軍事国家として歩む日本が過ちを犯すこともビゴーは予見していた、そんな節のある風刺画も見られます。
私たちは忘れたものを取り戻し、日本の良さとは何なのか?ビゴーを見つめ改めて俯瞰的に見つめ直す必要があるのかもしれません。
最後までお読みくださりありがとうございました。









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