
「胸糞悪い」と悪評の高い映画、「子宮に沈める」を見て思うこと
最近育児に関して調べる中で、どうしても避けて通れない社会問題が「虐待」という問題です。
身体的虐待、精神的虐待、性的虐待、そして教育虐待など、さまざまな虐待が問題となり、時にはそれが事件にまで発展することがあります。
そんな中でも今回は育児放棄、育児放棄(ネグレクト)という虐待にフォーカスを置いて、この映画を見ました。
「子宮に沈める」
2013年に公開されましたが、あまりに衝撃的な内容に「胸糞悪い」「もう見たくない」などの評価も上がった衝撃の映画でした。
確かに母親に教育放棄され、汚い部屋に閉じ込められ、衰弱していく姿をずっと見せられる映画なんてとても清々しく見れるものではないでしょう。
しかし、私は親になる、そして今まさに子育てをしている全ての人が一度はこの映画を見るべきだと思います。というか、いつか子供を育てる中学、高校生に関してもこの問題を一度取り上げて欲しいとすら思っています。
なぜなら、後述しますがこの映画は実際に起きた事件を基に作られた映画だからです。
つまり胸糞悪いと、目を背けたくなるような育児放棄が現実に起こり、地獄のような時間を幼い子供が経験しているのです。
子供に何の罪があるのでしょうか?母親の帰りを信じて待ち続けて飢えながら死んでいく子供達はどれだけ辛い日々を過ごしたでしょうか?
映画の残酷さや辛さから大人が目を逸らしていては、虐待という問題も、子供達の地獄の日々を知り、現実を知ることは出来ないのです。
映画はたかだか90分です。しかし子供達の地獄は50日続いたのです。
これ以上育児放棄により亡くなる子供がいなくなるためにも、私たち大人がしっかりとこの映画を通して考えることが重要なのです。
「子宮に沈める」のあらすじ(ネタバレあり)
主人公の母、由希子は長女の幸とその弟の蒼空と父親の4人で暮らしていた。とても一般的な家庭で、どこにでもいる幸せそうな家族だった。
しかし、父親が出て行ったことで家族の全ての歯車が狂い始める。由希子は子供2人を引き取り、思い通りにいかない子供2人の子育てに追われながら仕事の両立をする。
一度は医療事務の資格を取って手に職をつけようともするが、長時間労働と終わらない子育てでほぼ手に付かず。日々の生活に追われ、生活費のために友人に誘われた夜の仕事へと身を墜としていく。
次第に由希子の帰りも遅くなり、家に帰らない日も多くなる。そして、ある日を境に子供達を置いてぷっつりと帰らなくなってしまう。
娘の幸はたどたどしい手つきで自分の食事と弟の蒼空の面倒を見ますが、ある日、ついに蒼空が亡くなってしまう。蒼空の腐敗が始まり、蛆が湧き始める中で、幸は底をついた食料をなんとか食べながら純粋に母の帰りを待ち続ける。
ある日、由希子が帰ってきて幸は母に駆け寄るが、母は幸を浴槽で溺死させ、蒼空の遺体を洗濯機にかけてしまう。
そして亡くなった幸と蒼空をかつて一緒に使ったであろうピクニックシートに包み、自身の子宮に針を刺す。
由希子が見つめた先の窓には変わらない日常があった。まるでこの親子以外を置いていくように。
実在した事件を基にしたストーリー。大阪2児餓死事件
この映画は実在したある事件を基に作られています。
大阪2児餓死事件。
この事件では2人の幼児が50日間ネグレクトにより放置されたうえに死亡するという事件でした。部屋の食料はほぼ食べ尽くされ、2人の遺体のお腹は空っぽだったと言います。
逮捕された母親の下村早苗容疑者は、遺体が発見されるまでホストにハマり、逮捕当日まで男と遊び歩いていたことで世間の大きな批判を浴びることになりました。
裁判では未必の殺意があったとして異例の懲役30年の刑が言い渡されました。
ホストと男に狂い、子供を見捨てた母親失格の女。
しかし、果たして彼女だけが悪人だと言えるのでしょうか?そもそもなぜ育児放棄が起こるのか、その原因を紐解いてみましょう。
孤独と貧困の2つの闇

育児放棄が起こる原因の背景として、孤独と貧困が大きな要因とされています。
大阪2児餓死事件の下村早苗容疑者は実際は過去に育児放棄された経験や、性暴力被害、解離性障害を持つなど実際の生い立ちや背景は複雑です。
しかし、孤独と貧困があったことは間違いありません。下村早苗容疑者は自身の借金と浮気が原因で夫に離婚されています。夫はこちらに非はないとしたうえで、養育費を払わないとしたうえで、「子供をしっかりと育てます」という誓約書を書かせました。
養育費が無い中で、仕事をしながら子供2人を育てなければならなかったのです。
下村早苗容疑者の父親は仕事に没頭し、母親は精神的に不安定な状態でした。それ故に、両親の支援もまともに受けられなかったのです。
なぜ下村早苗容疑者は行政の支援を受けなかったのか?
行政の支援に対し無知だった?
通報を受けたときに責められると感じた?
夜の仕事をしていたため、仕事について聞かれたくなかった?
など様々な噂がありますが、どちらにしても孤独と貧困が大きな原因の中にあることは間違いありません。
映画でも母親の由希子も孤独と貧困に陥っていく様子が窺えます。由希子は一方的に夫が出て行き、仕事をしながら子供2人の面倒を見なければいけない過酷な状況に追い込まれていきます。
次第にお金に困り、友人の勧めで最終的に夜の仕事をすることになります。そして最終的には子供を放置し、凄惨な事件へと繋がります。
この事からも、育児放棄は貧困と孤独、2つが関係していることが分かります。
映画の中に存在する様々な伏線

「子宮に沈める」というタイトルの意味は?
ここの疑問を紐解くものとして、監督の緒方貴臣さんはこのように述べています。
お母さんが幼い子供を子宮に沈めたという意味ではなく、女性にしかない子宮を、母性の象徴として考えてつけられたタイトルだと思って欲しいです。
引用:https://synodos.jp/opinion/info/5804/ SYNODOSより
緒方監督は母性というものが母親を苦しめていると述べています。
確かに日本社会の中では
「母親は育児を完璧にこなせて当たり前」
「身を粉にして子供のために全てを捧げることが素晴らしい」
という母親という役割の完璧さを求める風潮があります。男性が育児休暇を義務づけるなど、父親の育児参加しやすい社会にシフトしつつはありますが、まだまだ育児は女性がするものという見方が強いと感じます。
もちろんそれはシングルマザーも同様で、日本の男性社会は子育てというものを甘く見て、育児の過酷に無知だと感じます。
こうして子育て疲れと孤立や貧困が育児放棄に繋がっている可能性が高いと考えられます。
情報の「余白」の多さと抽象性
この映画の大きな特徴は情報の「余白」の多さと抽象性が大きな特徴だと感じています。具体性があまり無いんですよね。詳しく見ていきましょう。
はっきりとした顔の映らないシーン
父親が出て行く夜のシーンでは夫婦共に顔が半分映っていなかったり、育児放棄し出て行く前の由希子の顔も良く見えません。
それはなぜか?
顔をはっきりと映さないことで、その人間を自分に重ね合わせられるようにしやすいためなのではないかと推察します。
「登場人物に自分を重ねられるように」
という監督の意図もあると思います。
大阪2児餓死事件で逮捕された容疑者は「風俗店勤務だから」、「ホストに貢いだ女だから」犯行を起こしたという偏見色がとても強く批判されました。
しかし、小さな育児放棄や置き去りの事件は今でもどこかで起きているのです。それは「あなた」にも十分起きえる事だと想像して欲しいという映画のメッセージなのではないでしょうか?
母親の由希子が実際に起きた事件と違い、「普通」の母親であるという設定も多くの「普通」の母親にも起こることとして見て欲しいという事なのではないでしょうか?
父親が出て行った理由
映画では父親が出て行った理由もはっきりとは明かされてはいません。浮気なのか、妻に嫌気が差して離婚したのか分かりません。
これも誰にでも起こり得る出来事だと連想させられます。
母親の仕事
母親である由希子はシングルマザーとなり、最初は手に職をつけようとして医療事務の資格を取ろうとします。しかし過酷な子育ての中で学習は捗らず、友人の紹介で夜の仕事に身を墜としていきます。
近年政府が「学び直し」という制度を提唱しましたが、シングルマザーや子育てに追われる人がどうやって学び直すのかという批判もありましたね。この政策より前の映画ですが、まさにその現実を見ているようなシーンを感じさせます。
そして由希子の夜の仕事に就いても明確には明かされてはいません。風俗の仕事なのか、ホステスやキャバクラなのか。
こういったものを色濃く出してしまうと、「事件のような仕事をする人間が引き起こした事件」という偏見が色濃く出てしまうからという理由が強く出てしまう可能性があるからだと監督は述べています。
誰にでもちょっとしたひずみで、お金に困り、夜の仕事に手を出す、という可能性を示唆している部分なのだと思います。
弟の死因
由希子が出て行き、幸と蒼空は育児放棄されますが、ある日弟の蒼空が亡くなります。しかし、蒼空の死因もまたはっきりとはしていません。
事件になぞらえているのであれば、餓死なのでしょうが実際の事件とは餓死するには時間があまり経っていないようにも感じます。
もしかしたら病気や食中毒にかかり病死した可能性もあります。死因などがはっきりしないことも、事件とは切り離して考える背景があるのかもしれません。
作中に登場する「赤い糸」の意味は?

「子宮を沈める」ではシーンのいくつかに赤い糸の描写が描かれています。
てるてる坊主に括り付ける糸
あやとりをする時の糸
由希子が編み物をするシーン
由希子が最期に自分の子宮に刺す縫い針に付いている糸
赤い糸について調べると、「運命的な出会い」などの意味があるようです。
「運命」というものもこの映画のキーワードと感じています。親も生まれてくる子供を選ぶことが出来なければ、子供もまた、親を選ぶことが出来ません。
親も子も、最初からこの人と出会うことを運命づけられているかのようです。それが故に、この悲惨な結末を迎えることもまた、運命だったと思わせられます。
シングルマザーとなって、お金に困り、夜の仕事に就き、育児放棄をした1人の人間は、最期まで救われることなく墜ちていき、その子供も決して救われることはないと感じます。
本来なら救えたはずの娘の幸の命をなぜ母親自ら奪ったのか?それは他に救いを求められない、救いを求める手段を断ち切られた1人の人間が最後にすることは、全てを葬ってしまうこと、なのかもしれません。
この映画を見ていて、「救いの手」というのは意外とあるのだと感じています。
夫は養育費を払ってくれてればとか、行政や児童相談所に相談してみたらとか、インターフォンや周りの人が誰か気付いて助けてくれないかとか、でもそういったものって一切無いんですよね。
この映画は1つの部屋の中から出ることが無いので、周りの人間の目がどうなっているのかを知る術もありません。なので母と子という極めて狭い世界観の中で私たちはこの映画を考えていくしかないのです。
だから客観的に見ている人たちから見たら、「こうすれば良いじゃん?」という発想が次々に浮かんできますが、実際に追い詰められてる人、事情がある人から見たら、そういう客観的な情報って全然入ってこないし頭になくなってしまうのです。
自殺とか、無理心中とか、殺人とかも、他の手段や救いの手を求めるという心理的な状況にはなくて、本当に追い込まれている人たちは、最終的にそういう「運命」に駆り立てられていく、それを止めるのは第三者からの気付きや救いでしかないと私は思っています。
そういう悲しい運命というのをこの映画に感じずにはいられないのです。
最初の生理のシーンは?
この映画の冒頭は最初に由希子が生理のついた下着を洗うシーンから始まります。この最初のシーンは何を意味しているのでしょうか?
最初の生理のシーンは最後に由希子が自分の子宮に編み針を刺し、お風呂場で子宮から血を流すシーンとリンクします。
生理で下着が汚れる、それ自体は別に不思議な事ではないと思います。
ですが最後に血を流すシーンでは、恐らく3人目の誰かの子供を宿していて、その子供をおろすための行動だったのだと推測します。
生理というのは女性特有のもので、生理が来る度「女」である、そして「母親」になるということを象徴させる。どこまで行っても子宮がある限り女であること、そして母親であることからは逃げられないという現実を突きつけられます。
そして母親である限り、社会の求める「母親の完璧さ」と母性を押し付けられる事への強烈なメッセージなのかもしれません。
浴槽と洗濯機、ロールキャベツが2人の子供の最期を暗示させる
生理の場面と共に、冒頭での3つの行動があります。
お風呂を沸かすシーン
洗濯機を起動させるシーン
ロールキャベツを巻くシーン
1番始めに見るときは、別に何でもない生活のシーンです。
しかし最後を見た後に、また最初に戻ると、その全てが最後とあまりに似ていて、その続きを見ているようでゾッとするのです。
最初の3つの行動は全て生きるために、そして子供を育てるために行う行為です。
しかし、最後はお風呂で幸を殺し、死んだ蒼空を洗濯機で洗い流し、ピクニックシートで遺体を包む。生活のための行動が、殺すため、そしてその遺体を隠すような行動となっているという事です。
そして包んだロールキャベツを煮込んで、食卓を中央に花が飾られている、そこで冒頭の1つのシーンが終わるのですが、最後を見ると、そのシーンが亡くなった2人を火葬して、2人がいなくなった食卓に2輪の花を添え2人を弔い、そこに由希子が普通に暮らしている、という見方も出来るのです。
最後の窓の意味は?
2人の子供の遺体をピクニックシートで包んだ後に、由希子が窓から外を見上げるシーンがあります。
この窓は「社会」を示しているのでしょう。「子宮を沈める」では外に出ることが無く、部屋の中の出来事で全て完結しています。そして外で何が起きているのか、由希子は外でどこで何をしているのかという情報は一切入ってきません。
この親子を救う手立てが唯一あるとすれば、この窓の外の世界だったでしょう。
幸と蒼空がもし外に出ることが出来れば、近所の人が異変に気付いてくれたかもしれない。行政が気に掛けてくれれば、手当とか支援とか受けられて、何か運命が変わったかもしれない。
しかし、そういったものは一切存在せず、まるで外の世界は見て見ぬふりをするかのように、この家族を置いて日常を過ごしています。
ここには社会の無関心さ、そしてこうして私たちが日常を過ごしている間に、同じように追い詰められてる人がいるという警鐘を鳴らしているように思えるのです。
このようにこの映画には様々な伏線が存在しているのですが、「鬱」「胸糞」と呼ばれるのはもちろん誰も救われない展開が心苦しいというのもあるのかもしれません。
しかし、同時にあまりに現実的で誰にでも起こりうる不幸やひずみは存在する。しかし自分は違うという心の想いや母性を信じたい人たちにとっては一種の拒否反応となるのかもしれません。
育児放棄から子供を救うために出来ること

実際の事件やこの映画を見て、いかに育児放棄が子供を不幸にして、時に悲しい事件に繋がるのか理解が出来ます。では、私たちはこのような事件を防ぐために何が出来るでしょうか?
これを私は3つの視点から私なりにまとめてみました。
・自分の持っている愛を過信しないこと
・父親側の育児参加の機会を国で作る
・行政や第三者が介入できる社会にすること
自分の持っている愛を過信しないこと
愛とは、絶対的なものではないのです。
男女の愛、そして親子の愛も同様です。
彼女(彼氏)とラブラブだったころは、「彼女(彼)との愛は絶対だ!」と信じていたと思います。しかし、喧嘩したり失望したりで翌日あっさりと別れてしまう時もあります。
その絶対の愛はどこに行ったのか?そして親子の愛は違うのでしょうか?
この映画も冒頭はすごく仲睦まじい親子のシーンであり、大阪での事件でも恐らく母親は子供を愛していたと思います。
しかし、貧困や仕事の問題、社会からの孤立、さらにストレス発散で男にのめり込み、次第に子供達の世話を放棄するようになります。
あれだけ溢れてた母の愛はどこへ行ってしまったのか?
このように親の子供への愛情も実は意外とあっさりと消えてしまう可能性があるのです。
日々の生活や危機で追い詰められてしまったり、孤独や孤立で自分への余裕を無くしてしまうことで、愛は大きく揺らぐこともあるのです。
昔の人は、貧しさ故に子供を売り飛ばしてしまったり、口減らしに子供を殺してしまったという話も聞きますが、彼らも非情な外道なのか、というと、そうでもないわけです。
それだけ昔は貧困などにより、生きていくことがままならない上での手段だったのだと感じています。子供を愛情いっぱいに育てる、というのは、実は経済的余裕や心の余裕、豊かだからこそ成り立つのかもしれません。
もちろん「自分は子供の事を心底愛している」という想いや考えを捨てろというわけではありません。私も子供の事は愛していますし、自分の命に換えても子供は守り抜きたいと考えています。
しかし、心のどこか1%には
「自分は何かをきっかけに子供への愛を無くしてしまうかもしれない、虐待などをしてしまうかもしれない」
というものを持っておくと良いかもしれません。
愛というものに100%依存しないからこそ、他人や国に「助けて」を言えるからです。自分の愛を100%過信してしまったら、他人に頼るという手段を断ち切ってしまうことになります。
自分が仮に飢えても、病気や孤立で心の余裕を無くしても、国や行政が子供を育てる制度は充実しています。だから、追い詰められても「助けて」と言えば、国や自治体が動いてくれるありがたい国なのです。
だから子供のためにこそ、自分の愛というものを過信しすぎずに、愛以外の心の持ち方を持って欲しい。多くの人にそう願わずにはいられないのです。
是非、一度映画を見て、この事件を見つめて、改めてどうしたらこのような事件が起きないか、見つめてみてください。
父親側の育児参加の機会を国で作る
今回の2つの事件と、映画は母親に焦点を充てた「母親による凄惨な結末」として終わっていますが、父親という役割の放棄と無責任さも背景に存在しています。
大阪2児餓死事件では、当初下村早苗容疑者が浮気したことで、父親は養育費を払えないとしたうえで、子供達の面倒を見るようにと全て押し付けています。
そして映画では由希子の夫は由希子を拒絶し、出て行った(離婚?)ことにより母親が働くことと育児をすることの両方をすることになり、追い詰められていきます。
どちらも「母親失格」という烙印ばかり押され、父親の無責任さは陰を潜めているという気がするのです。
これは日本全体がまだまだ「男は仕事、女は家事育児!」。
母親は身を粉にして完璧にこなすという風潮が強いことの表れだと思います。毎日の重労働である子育てをもっと、父親が参加しなければダメだということを物語っています。
離婚しても、父親に問題が無い限り子育てに参画すること、問題があるなら養育費をしっかり払わせる社会でなければなりません。
しかし、父親に育児参加の意思があっても、国や企業が育児参加に消極的という現実もまた大きな問題です。
父親も育児休暇を義務づける法律が出来ましたが、まだまだ父親も積極的に育児に参加しなさい!という雰囲気は薄いです。
故にこの事件は、日本全体の子供を育てる環境の問題を提起しているとも言えます。
行政や第三者が介入できる社会にすること
先述しましたが、父親が育児参加することも大切ですが、そういった環境を整えることもまた、社会全体の課題です。
そして、こういった孤独や貧困に直面したり、虐待にもっと介入できる社会作りが必要です。
大阪2児餓死事件でも、近所の人が子供の泣き声を聞いて何度か通報していますが、留守だったり親が現状を隠したりしたことで、子供が亡くなるまで社会が介入できる機会や子供を救うチャンスを逃してしまい事件は起きてしまいました。
母子家庭や、日本全体が貧困に困っていく中で、行政がもっと権限や介入を強化していき、親子をいち早く救済することが、悲惨な事件を無くすことになりますし、少子高齢化という課題の中で尊い命を守ることが出来る手段となるのです。
まとめ
「子宮に沈める」の映画を見ると家庭の中に隠された闇というものを垣間見ることが出来ます。しかも私たちにとって1シーンのところどころに「この気持ち分かる」という母親の苦悩が共感できる部分があります。
そしてたくさんの伏線や考察がされていて、必ずしも1つの答えがあるわけでもありません。
大切な事は、映画を見て、感じて考えること。この映画に隠された様々な闇や謎を考え抜いて、何を説いているのか、そして何を私たちは考えなければならないのかを、しっかり考えることが大切です。
「悲惨な結末だから見たくない」
「鬱になりそうで胸糞悪い」
という気持ちは分かりますが、ここに目を背けずに、何度も見てこの社会問題と向き合ってみてください。
最後までお読みくださりありがとうございました。
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