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※太宗とも呼ばれていますが、ここでは李世民で統一します。
中国の残酷な歴史の中で名君と呼ばれた時代と皇帝。
中国の歴史、と言えばどんなものが浮かぶでしょうか?
私は漠然と、秦の始皇帝の粛正による大量の人間の処刑、そして酒池肉林と呼ばれる紂王の暴政など、戦に明け暮れ大量の人間が1人の皇帝により酷使され、そして処刑される、そんなイメージが私には強く根付いています。
しかし、中国3000年の歴史ともなると、そんな暴君ばかりではなく、民を慈しみ、国を憂い、名君と呼ばれ何百年にも及ぶ平和な時代の礎を築いた人物もいました。
それが今回紹介する唐の李世民と、その李世民の政治や言行録を記録した書物の「貞観政要」です。
貞観政要は帝王学の最高傑作とも呼ばれ、日本ではあの徳川家康の愛読書でもあり、家康はこれを読み250年もの徳川幕府を存続させたと言われています。
内容は主に唐の2代目皇帝李世民とその部下とのやり取りを記録したものです。
李世民は常に考えました。
「どうすれば国を長く繁栄させ、豊かにし、そして名君として一生を終えられるか」
それを部下と問答形式で記録しました。
中国の歴史は新たな王朝の誕生と滅亡を繰り返してきました。「なんでそんなにあっさり国は滅亡しちゃうの?」を研究し、それを実践し、結果300年近い繁栄を築くことが出来たのです。
中国史において、諫言を聞き入れ、国民の生活を第一とし、何百年という泰平の時代を作ったのは割と珍しいことで、現在の中国でも言論の自由は許されておらず、共産党の批判や悪口は取り締まりの対象となり、人民が自由に政治に発言したり、自分たちの理想や国民主体で何かを行うことが未だに許されていない、そんな過去と現在があります。
そして中国の歴史というのは暴君の歴史と言っても過言ではありません。殷の紂王の酒池肉林という言葉が有名ですが、国民の生活を顧みず贅沢放題。そして気に入らない人間はどんどん処刑して行きました。
秦の始皇帝の大量の処刑もその1つで、自分に逆らったり、自分に逆らいそうだと感じる者は家族ごと処刑し、何万もの人々が殺されていきました。
李世民の前の時代の「隋」においても、やはり煬帝という皇帝がデカい川を作りたい、という理由でその運河建設に多くの労働と重税を課し、国民を地獄のように酷使しやがて人々の怒りを買って暗殺されました。
そんな暴君の歴史を終わらせ、名君であろうとした李世民はどんな人物だったのでしょうか?貞観政要から李世民とその時代を紐解いてみましょう。
李世民とはどんな人だったか?
李世民とはどんな人物だったのか?私が「貞観政要」を読んだ中で分かった性格は以下の3つです。
・知ったかぶりをせずに、自分の無知を自覚し、謙虚に学ぶ
・情に深く、国民を救う心がある
・自分のダメ出しや反対意見も怒らず聞き入れた
知ったかぶりをせずに、自分の無知を自覚し、謙虚に学ぶ
李世民と弓の専門家(弓工)に良い弓を手に入れたときの話です。
俺は弓矢で天下を取った!だから弓矢には誰よりも詳しいぜ!
恐れながら、陛下が持ってきた弓矢は良いものではないですねー
え、なんで?
木の心(しん)がまっすぐじゃないと、木目が歪んでしまい、強い弓でも真っ直ぐには飛ばないんです。
マジか・・俺は弓で天下を取ったけど、弓のことなんて何も分かってなかったんだ・・こんなに使っていた弓の事さえ知らないだから、政治なんてもっと俺知らないじゃん・・
と、李世民は弓を使って武力で天下を統一しましたが、実は弓の内情にそこまで詳しくないことを恥じます。武芸を磨いても知らないことがあるんだから、政治なんてもっと分からないことだらけだと自覚し、それにより、官吏などから内外の情報や政治についてたくさん聞いて知識をつけたとされています。
知ったかぶりをせずに、分からないことは分からないと言い、部下や専門家に意見を聞く姿勢がとても偉いと思います。
出来ない上司ほど自分の無知を隠し、バレないように傲慢に振る舞います。でもそういうのって隠すほどバレるし、失望も後で大きいし、傲慢な分怒りが増します。
分からないこと分からないと、部下や詳しい人に謙虚に学ぶ姿勢。李世民から学びたいですね。
情に深く、国民を救う心がある
ある時、一部の地域が干ばつとなり、大飢饉に陥った時のエピソードです。当時水害や干ばつはトップの人間が不徳をするからだと信じられていました。その時李世民はこのように述べました。
これは俺のせいだ、俺が責められるならまだしも、人民が息子や娘を貧困によって売り飛ばすなんて可哀想だ・・
これにより国のお金で売られた子供を買い戻し、親の元へ返させたそうです。
もちろん、天災は暴君だろうが名君だろうが等しく起こる者であり、李世民のせいとは言えません。しかし、常に原因自分論で考え、人民の不幸を憂い、災害の度に自分を反省したというのは人間としてとても魅力が高いです。
出来ないトップは自分のせいで部下が不幸になっても見て見ぬふりをして、それを自己責任という言葉でなすりつけて保守をしようと人間が大半です。
それを他人事にせずに、きちんと下の人間に手を差し伸べてあげる。これこそトップのあるべき姿ではないでしょうか?
自分のダメ出しや反対意見も怒らず聞き入れた
李世民は部下にこのように言いました。
悪いときに指摘し、諫めてくれた忠臣たちを殺してしまい、国を傾けた奴らが過去にはたくさんいる。俺は絶対に君たちを責めないし処刑もしない!悪いところがあったらどんどんダメ出ししてくれ!
これを公然と言えちゃうのがまさに李世民の名君たる所以だと思います。
ダメなトップは自分の悪い点や、良くない行いを指摘すると嫌な顔をして、時には左遷したり、何か嫌がらせがましい事をしたりします。でも上の人間にダメなところを言ってくれる人こそ組織には必要です。
とは言え、自分の欠点や、やることに口出しされるのは普通は嫌ですよね。私だって自分の多くの部下や周りの人間にこれを言える勇気は分かっててもなかなかないです。
だからこそ公然と自分の悪いところを指摘してくれと言える李世民の凄さを感じるのです。決して李世民がドMだからじゃないことを了承ください。
名君と暗君の違いは?
李世民は側近の1人である魏徵にこう言いました。
魏徵さん、名君と暗君の違いってなーに?
そりゃずばり、多くの人の意見を聞けるか聞けないかですよ。アホな君主は全く聞かないか、お気に入りの人の話だけしか聞かないからです。
ぶっちゃけ、※十思九徳を守れば勝手に頭良い人が計算し、武人が勝手に集まって国を守り、忠義を尽くすから、トップのやることはあんまないんですよ。
※十思九徳とはその名の通り十の思いと九の徳の教えがあるのですが、煩わしいのでここでは「慎み深くしていること」と略します。
上記の会話の通り、名君とは広く人の意見を聞くことが出来るか、です。
ヤバい会社ほど上が自分のお気に入りやイエスマンで周りを固めて、彼らの意見しか聞かない、というパターンがあります。そして大体ゴマ擦ってお気に入りになった人間というのは自分の出世と保身しか興味ないですから自分にとって良いことだけしか言わずに、机上の空論や根性論ばかりを現場の人間に押し付け、現場がどんどん仕事がしずらい環境になっていきます。
側近やお気に入りだけでなく、自分に厳しい意見を言ってくれる人、現場の意見をちゃんと聞き、課題や不満にきちんと耳を傾ける。それが出来ることが名君の条件だと魏徵は解いています。
さらに十思九徳を守ればあまりやることはないということですが、トップに立つべき人間のやるべきことはそもそもあまり多くはないのです。先述の通り広く人の意見を聞くことが1つありますが、もう1つの十思九徳とは何事も慎み深く行うということです。つまり自分の感情や機嫌に任せて適当にしてはいけないということですね。
業績を上げた人間に賞を与えるときは嬉しいからと言って部不相応に報酬を渡しすぎていないか、逆に罰を与えるときは怒りにまかせて相手を追い落とし過ぎていないか、リスクの高い事業をするときは、一か八かで根拠無く突っ込んでいないか、一歩引いて考えながら行うということです。
さらに何事も人に任せられないと、人事や現場まで自分で決めたりやったりするトップもいますが、それもナンセンスだということです。慎み深く、そして多くの意見を聞いていれば優秀な人事が優秀な人材を引っ張ってきて、優秀な現場が作業効率を上げ、無駄を減らし、欲ではなく、利益と忠実さを持って自分のもとにやってくる人間が勝手に集まるから、彼らにそれらを任せようじゃないか!という話なのです。
諫諍の重要性、そして人材選びで全てが決まる
多くの人の意見を聞く。それが名君の条件だと分かりましたが、ここにも少し注意点があって、周りがアホウばかりだったら話にならないわけです。
三国志で有名な後漢の末期、皇帝には10人の宦官の十常侍と呼ばれる側近がいましたが、なんと!その10人全員がアホウだったのです。
十常侍は人民が餓え苦しんでいるにも関わらず、皇帝に天下は治まっていると嘘をつき、自分たちも毎度遊びほうけていたのです。彼らは皇帝が外の世界を見ないように、やれ酒や女やと、欲望の限りを彼に与えていました。
こんな具合で良いように操られ、霊帝と呼ばれた当時の皇帝は隷帝とも呼べるほどだったのです。そして黄巾の乱を呼び起こし、国中が荒れ、最後は名士でもあった袁紹によって十常侍は全員殺されました。
と言うように、周りがアホウで固めてしまったらどんな名君でもただの傀儡に過ぎなくなってしまうので、李世民はまさにこの人材選びに命を賭けたと言っても過言ではありません。意見を求めるにも広く、そして人材をしっかりと選ばなくてはならないのです。
特に自分をダメ出ししてくれる人は諫議大夫と呼ばれ、頭が良い人が厳選されました。李世民の時代で有名だったのが先ほどの魏徵です。
皇帝に対し、最もダメ出しをして、常に李世民の間違いを正しくしてくれたのがこの魏徵であり、魏徵の死去の際はこのように述べました。
銅を鏡とすれば衣服や冠を正すことが出来る。古を鏡とすれば、世の中の興亡を知ることが出来る。そして人を鏡とすれば善悪を明らかに出来る。俺はこの3つの鏡で自分の過ちを正せた。しかし魏徵が亡くなってついに3つのうちの1つを失った。魏徵だけが常に自分の過ちを正してくれたが、今はみな過ちがあってもなかなか正してくれる人がいない。改めて言うが俺の悪い点があれば隠すことなく言って欲しいのだ。
魏徵がいかに李世民に隠すことなく諫言してきたかがよく分かる話です。
とは言え、果たして魏徵以外の人たちは李世民の過ちを見て見ぬふりをしてばかりいるのかと言うと、そうでもないかもしれません。というのも、生前魏徵がこんな話をしていました。
最近俺へのダメ出し少ないけど、どうなってんの?
それは陛下にビビってるからですよ。皇帝という権威は絶大です。みなおいそれと諫言するなんて簡単に出来ることではないのです。まずは信頼関係を築かなければなりません。人はクビになったり、処刑されるという歴史を知っているから簡単にダメ出しするなんて出来ないのです。まずはいつでも機嫌を正し、常にどんな話も喜んで聞きます、そしてありがとうを忘れないという姿勢で常に聞き入れてください。
と言った具合です。あなたはもし明日から好きに社長の悪いところを指摘して良いとなったら遠慮無く言えるでしょうか?恐らく難しいと思います。どれだけダメ出しOKとなっても、相手が権力を持っているというのはそれだけで難しいものなのです。だから魏徵はまず聞き手である李世民に対して聞く姿勢というものを説いています。
とは言え、相手がどんなに聞いてくれるからと言って
「お前のやることは全部間違ってる!なんてダメな皇帝だ!バーカ!バーーカ」
なんて言ったらどんな寛容な人でもブチ切れられる可能性があるわけです。聞き手の姿勢も大事ですが、諫言を言うにも部下はある程度の心得が無ければなりません。
諫言を貞観政要では諫諍(かんそう)と言います。この諫諍には種類がありました。
幾諫(きかん)・・・それとなく諫めること
規諫(きかん)・・・枠にはめるようにきつく諫める
切諫(せっかん)・・・心をこめて強く諫める
泣諫(きゅうかん)・・・泣いて諫める
強諫(きょうかん)・・・相手の思いに逆らってギリギリまで諫める
極諫(きょっかん)・・・これ以上ないというギリギリまで諫める
死諫(しかん)・・・死んで諫める
当然上に行けば行くほど諫め方も強くなります。信頼関係が強く、過ちを正さなければならない重臣や諫議大夫ほど強く諫めなければなりません。
日本では信長の若い頃、その粗暴な振る舞いが全然直らず、最終的に死ぬことで信長を諫めた教育係であった平手政秀などが死諫とも言える自害をして諫めています。
このように部下たちも慎重かつ、いざとなれば強く李世民の身を正してきたからこそ、李世民は暴君とはならずに済んだのかもしれませんね。
創業と守成。そしてさらに大切な「継承」。
最後に貞観政要の中で最も有名な「創業と守成」の話を見てみましょう。
何かを始め、何かを成し遂げる創業と、成し遂げ完成したものを守る守成。創業と守成ってどっちの方が難しいかな?
始めの頃はライバルも多くいて、競い合いが必ず始まります。それらに勝っていき、戦いの勝利を重ねていかなければなりません。ゆえに創業が一番難しいでしょう。
魏徵さんはどう思う?
創業するときは大体国は乱れて人民達が新たな王を望みます。なので乱れた王朝を滅ぼすのは難しくありません。ですが、創業の後は驕りが生じてしまい、新たな暴君が生まれがちです。また人民を酷使し、新たな王の贅沢三昧の日々が起こりやすくなるのです。なので王が身を引き締め、規律を守り抜かなければなりません。故に守成こそ難しいです。
房玄齢さんは俺と一緒に創業に向けて一緒に戦って来たし、辛いことを一緒に乗り切ってきたからなあ。創業の苦しさを知っているからこそ創業が難しいと言ってくれたのだろう。
魏徵さんは創業後の驕りが国家を危機に陥れ滅亡することを心配してくれているのだろう。
まず苦しかったが創業は成った。房玄齢さんの言う通り創業も苦しかったが、今後は守成についてみんなと思う存分意見を交わせればと思う。
これは創業と守成どちらが難しいかを李世民が家臣の房玄齢と魏徵に聞いたシーンです。
房玄齢と魏徵の2人の意見を聞いたうえで、房玄齢の意見も立てつつも、これから課題となる守成についてみんなで頑張っていこうという意気込みが見られる話です。
創業においては李世民は初代皇帝である父と共に各地を回りライバル勢力を打ち倒し王朝を立てました。しかしながら李世民を殺そうと画策する兄弟を殺さなければならないなど、兄弟同士でも血なまぐさい争いをしなければなりませんでした。
そして守成においても、李世民自身が最も自分の欲望を我慢し、広く部下の意見を聞いたこと、そして治安や維持や領民の暮らしを安定させたことで唐は中国市場希に見る発展を遂げていったのです。後の高宗や則天武后も善政だったり大きな混乱は無かったとされていますが、恐らく李世民の基盤が無ければそれも難しかったのではないかと予測しています。
何にせよ創業を成し、守成も守り抜いたと言える李世民ですが、創業と守成だけでは不足しているもう1つの課題を唐という王朝は解決出来なかったと私は考えています。
それが「継承」です。
守成を永続的に何百年も守り抜き、それを継承していくという事業が完全では無かったがために、後に玄宗皇帝が楊貴妃を溺愛し、安禄山という野心家を傍に置き、唐の滅亡を招いてしまったとも言えます。
先述したとおり、次の継承者である子や孫の代、高宗や則天武后の代は比較的善政だったようですが、やはりどんどん世代交代が起こるにつれ、守成は崩れやすいものだと感じます。
貞観政要の影響を受けた徳川幕府も、子や孫の秀忠や家光の代は家康の教えを守り幕府の礎を築きましたが、10代目あたりになるとやはりトンデモな将軍が現れて国民が飢餓などに苦しむ自体が多々ありました。
大奥に入り浸り女と酒に溺れる者や、他人に政治を任せ、趣味に没頭する者。奇行をする者など、どんどんおかしな人が多くなっていくようです。
創業をし、守成を頑なに守れば2~300年の天下を取れることは唐などの歴史から証明できますが、永年に続きトップが身を正し、それを諫める部下を置き続け、国民に平和と繁栄を続けることはとても難しいのかもしれません。
もちろん唐だけでなく、様々な歴史、そして現在における国家や組織において未だに残る課題がこの継承なのかもしれません。
最後までお読みくださりありがとうございました。
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